2016年02月29日

新千歳空港の“コカコーラ・ポーラーベアー”(2015.10.22)

少し「懐かしい」感じになった、昨年10月下旬の旅行の画を眺めていた…

↓こんなモノの画が…
'Cola Bear' at New Chitose AP on OCT 22, 2015 (2)
↑新千歳空港から出発する際に視付けたモノだ…

↓コカコーラだらけで、一寸驚く自販機が傍に在った…
'Cola Bear' at New Chitose AP on OCT 22, 2015 (3)

↓キャラクターを、何処と無く「北海道土産の木彫りの熊」というテーストを採り入れた具合にアレンジしているのが好い…
'Cola Bear' at New Chitose AP on OCT 22, 2015 (1)

「新千歳空港に寄りました」という記念撮影向けには、人気が高い場所になっているのだろうか?立寄ったのは、行き交う人がやや少なめの早朝だったので、その辺がよく判らなかったが…
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2016年02月05日

小倉駅に着いた新幹線N700系(2015.10.22)

時間を設けて何処かへ出掛けるということになると…「あっちにも行きたい…こっちにも行きたい…そっちにも行きたい…」と何処にでも行きたくなり、結局、多少強引な移動を繰り返してしまうことになる…10月下旬の旅では、関西に上陸してから九州方面を巡り、広島に寄ってから関西方面に入るというような、多少強引なことをやってしまった…

関西に上陸した日…早速に姫路・小倉間を新幹線で移動し、更に翌日以降の段取りを考えて「朝の時点で熊本に居たい」と思い至って、更に新幹線で熊本へ移動した…

↓小倉駅で下車し、更に進んで行くのを見送ったN700系だ…「九州新幹線乗入」の仕様となっているモノだ…
Kokura Station on OCT 22, 2015 (3)

新幹線の小倉駅や博多駅は、少し面白い…小倉駅や博多駅は、九州に在って、JR九州の営業エリアで、小倉駅や博多駅はJR九州で最も乗降客が多いような駅でもあるのだが…新幹線の「博多までの区間」に関しては「JR西日本が運行」なのだ…その故か、小倉駅ではJR西日本の券売窓口と、JR九州の券売窓口とが在る…窓口の係員の制服が一寸違うので判る…

新幹線に縁薄い地域に住んでいるので、何かで新幹線の列車に乗車する機会が設けられると、妙に嬉しいものだ…
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2016年02月02日

姫路駅の新幹線ホーム(2015.10.28)

関西の各私鉄に乗り放題という乗車券<スルッとKANSAI>を福岡で入手し、広島に立ち寄った後、「関西圏に入ろう!」と夜の新幹線の列車で姫路を目指した…10月下旬の旅では、関西圏では姫路を、九州では小倉を“起点”のようにして動き回った型になった…この両地域に所縁が在ると言えば…かの黒田官兵衛だ…

↓そういうつまらないことを思い出しながら、姫路駅の新幹線ホームに着いた…
Arrival at Himeji Station in night on OCT 28, 2015 (1)
↑列車の後尾側に乗車し、下車後に後ろから眺めた…これはN700系の「九州新幹線乗入仕様」だ…九州で勾配がキツい区間が見受けられることから、モーターが増強されていて、東京・博多間に投入されるN700系よりも短めな編成だ…勝手に「青磁色」と私は呼んでいるのだが、微妙に蒼が入った色合いが素敵だ…

新幹線の姫路駅に関しては、全ての列車が停車する訳ではない…通過する列車も多い…多くの駅で、ホームの列車が発着する辺りに柵が設けられているが、姫路駅にはそれが無かった…実は往路でも姫路駅から小倉駅を目指したのだったが…通過列車の“風圧”はなかなかなものだった。北海道新幹線に関して、「すれ違う貨物列車の関係で、青函トンネル内で速度が上げられない」という話題が在ったが…新幹線列車の通過をホームで見送ってみると、「なるほど…」と思う面も在る…

新幹線の姫路駅では、ホームは“対向式”になっている。往路は階段を下りて、また上がった所に在る反対側のホームを使ったのだった。「やれやれ、姫路に着いた…」と列車を眺めていると、列車は静かに加速して、東側になる神戸や大阪の方向へ進んで行った…

↓改札口へ通じる通路に繋がる階段を目指すと…窓が在った…
Arrival at Himeji Station in night on OCT 28, 2015 (4)
↑低い階層の在来線のホームが見えて、姫路の街の「より繁華?」と見受けられる方角が見える…遠くに…「姫路城?!」と思えるモノが…

↓一寸望遠を…間違いない!!姫路城が見える!!
Arrival at Himeji Station in night on OCT 28, 2015 (5)

姫路駅については…「そう言えば通り過ぎた…」という程度の浅い縁だったのだが、10月下旬の旅を通じて、何か「思い出の駅」に数えられるような感じになった。姫路城を訪ねたことも大きな要素だが、往復で新幹線の列車に乗車し、この駅を起点にしたので、何となく「我が駅」と勝手に思ってしまっている…
posted by Charlie at 18:11| Comment(0) | HDR/2015年10-11月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月29日

暁の小倉駅(2015.10.27)

時々、「少し前の旅」が妙に懐かしく思い出され、不意に写真を眺めてみるようなことが在る…

↓小倉駅周辺…駅舎に続く歩道橋の辺りからの、朝の光景だ…
Morning around Kokura Station on OCT 27, 2015 (1)

この前日…宮崎から小倉まで…美々津や延岡に道草し、途中の“ボトルネック”と呼んでいる「普通列車は1日3往復」な区間も通り、日豊本線を北上し続けた。「日付が変わる手前?」というような時間帯に小倉駅に至り、「休憩所」と呼び習わしているネットカフェで夜を明かした…そして迎えた朝に外へ出ると、この美しい空に出くわした…

↓小倉駅の出入口…新幹線側の方だが、“ハーロック”が行き交う人々を見守っている…
Morning around Kokura Station on OCT 27, 2015 (3)
↑“ハーロック”は漫画家・松本零士が生んだキャラクターだが、北九州市は同氏の出身地であり、<漫画ミュージアム>というモノも在ることから、キャラクターの像が駅に在る訳だ…

小倉駅は、様々な路線を行き交う、新旧様々な車輛が視られる駅で、立寄ると何となく気持ちも弾む…

↓薄いアイボリーに青いラインのキハ147が、朝陽の光を受けている!
Morning at Kokura Station on OCT 27, 2015 (1)
↑これは日田彦山線(ひたひこさんせん)の列車だ。

“日田彦山線”というのは、城野駅(北九州市小倉南区)から夜明駅(日田市)に至る路線であるというが…列車は「小倉・日田」で運行されているものが目立つ…この時に乗車したのも、小倉を発って日田に至る列車だった…

↓こういう状態の中、“夜明”という名の駅へ列車が向かうと思うと、何か酷く「ロマンチック」な感じがする…
Morning at Kokura Station on OCT 27, 2015 (4)

こうして、美しい暁の空を視ながら出発したが…列車が進むに連れて雲が多い感じになり…日田から久留米に至った辺りで雨が降り始め、福岡市内に至っても雨に当たったのだった…
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2016年01月27日

日豊本線:重岡駅に停車中のキハ220(2015.10.26)

時々、「少し前の旅」が妙に懐かしく思い出され、不意に写真を眺めてみるようなことが在る…

↓日豊本線の重岡駅である…
Shigeoka Station on OCT 26, 2015 (3)
↑1日に3往復の普通列車が停車するだけの駅である…

↓本当に3往復だ!!
>>重岡(しげおか) - JR九州/駅別時刻表

重岡駅は、大分県佐伯市に在る駅だ…2013年頃の資料で、1日の乗降客は…15人程度らしい…朝と、夕方と夜の計3往復だけなのだから…

佐伯市は大分県の南端の方で、宮崎県の北端の方を占める延岡市との県境という地域だ。佐伯・延岡間の往来は存外に盛んだ。そして福岡県から鹿児島県にまで延びる日豊本線の一部を為す区間だ。この佐伯・延岡の区間…主に特急列車が往来していて、普通列車は3往復に留まっている…

↓普通列車が3往復なのは、下記の区間である…58.4kmの区間だ…
佐伯 - 上岡 - 直見 - 直川 - 重岡 - 宗太郎 - 市棚 - 北川 - 日向長井 - 北延岡 - 延岡
↑この58.4kmの区間…特急列車は57分…各駅に停車する普通列車は85分を要する…

↓重岡駅のこんな写真…これは、特急列車の通過待ちで少し長く停車するから撮影出来る訳だ…
Shigeoka Station on OCT 26, 2015 (4)

この時は、宮崎駅を出発し、美々津に立寄ってから延岡に至り、「3本しかない普通列車の中の1本」を待って乗車した。九州域内の普通列車に乗り放題な<旅名人の九州満喫きっぷ>を手にしていたからに他ならない…

延岡駅で…写真の赤いディーゼルカーが現れた時には「来たぞ!!!」と少し興奮してしまう…延岡駅の辺りのベンチに座って、少し長く待ったからなのだが…そして、この赤いディーゼルカーのキハ220…好きな車輛である。力強い感じの形状で、JR九州のコーポレートカラーでもあるのだが、「ハッキリと濃い赤色」という車体は、何か見栄えもするような気がする…そしてセミクロスシートで、九州の車輛に見受けられる「木造調な椅子にクッションを貼った感じ」な座席も、意外に居心地が好い…運転時間がやや長めな場合も在る車輛であるため、御手洗も完備だ…

この時は…重岡駅での停車の後、少し居眠りをしてしまった…佐伯駅で…運転士さんに「着きましたよ!」と声を掛けられ、少し慌てて起きた…そして、佐伯から更に北上を継続したのだった…

2015年には「延岡・佐伯」という型でこの区間を移動したが、2014年には「佐伯・延岡」という型で移動したことも在った。個人的には…「普通列車の旅の“ボトルネック”」と呼んでいる区間なのだが…

そもそも…2012年に南宮崎・大分間を特急列車で移動した際、「延岡・佐伯」で「小一時間も真っ暗だったが…あそこはどういう具合になっているのだ?!」と思い、この区間を普通列車で移動することを思い立っていた…2014年は、佐伯で列車に乗車した後、直ぐに暗くなってしまった。あの時は日が短い12月でもあったのだが…今般、未だ少し明るい時間になる10月下旬にこの区間に乗車して、少し様子を視ることが出来たのだ。善かった…

こうやって「想い出の区間」が増えるような旅…機会さえ設けられるのであれば、何時でも行きたいものだ…
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2015年12月13日

博多うどん(2015.10.27)

福岡の天神で友人に会った際…九州上陸後、宮崎で頂いたうどんが美味かったということを話題にした…そして、広島へ移動する夜行バスに乗車すべく、博多駅方面に向かうことを告げれば…「博多駅の地下街に美味いうどんの老舗が…」と友人が教えてくれた…

天神から地下鉄で博多に移動し…「どれどれ…」とうどんの老舗という店を探すと…アッサリ見付かった。食事時間帯のピークということでもなく、特段に待つでもなく入店出来た…

↓頂いたのはこういううどんだ!!
'Udon' at Hakata, Fukuoka on OCT 27, 2015
↑時間が経つに連れ…「あのうどん…佳かったなぁ…」と思い出す頻度が高まっている…

博多のうどん…かなり麺が太い感じで、柔らか目である…しかし柔かさは「過ぎない」感じだ。出汁は、色が薄めで、多分幾つかの材料を合わせているのだと思った。

うどんの“御先祖様”というような料理は、かなり古い時代に博多にもたらされたらしい。やがて、商家等の忙しい場所で手軽に頂ける食事として普及し、更に随時頂く消化の良い軽食として拡がった…らしい…

頂いてみた博多の流儀のうどんは、“丸天”と呼び習わされる、魚の白身で造る“さつま揚げ”のようなモノを合わせたモノだったが…これが出汁や麺に合う!!

旅から戻って、幾分の時日が過ぎているが…最近はぼんやりと「札幌・福岡…最安値の航空券?」と考えながら、航空券の価格の情報を眺めてみることが在る…「数万円の交通費がどうしたものか!?博多のうどんが!!」と思わないでもない…他方で、「あの博多うどんは素晴らしかったが…再会を果たすには、交通費が往復数万円…」とじっと腕組みをしてみたりする…

とにかくも「博多うどん」は、「あれが佳かった…」と「時々思い出すモノのリスト」に確り加わった…
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2015年12月11日

福岡:水鏡天満宮(2015.10.27)

九州最大の都市である福岡市の都心部というのは、古くからの港と城下町の2つが合わさったような感の街なのだという。既に1979年に廃止されているものの、「西鉄 福岡市内線」という路面電車のベースとなった“福博電気軌道”、“博多電気軌道”が古くからの港を擁する博多と、城下町を前身とする福岡を結び付ける交通体系を準備し、そこから2つが一体化した発展の道筋が始まったようだ。

“博多側”には、九州各地を結ぶ鉄路や新幹線が乗入れ、福岡空港からも便利なJRの駅が在って、周辺が賑わっている。他方、“福岡側”では各種交通の結節点のようになっている天神周辺が、オフィスや商業施設の犇めく「都心!!」という雰囲気の強い地域になっている。

この“福岡側”の「天神」という地域名に関して、「所謂“天神様”が在って、そう呼び習わされた?とすれば、“天神様”は嘗て存在したのか、または現存しているのか?」と気になったことが在った…

↓鳥居の真中に<天満宮>と在る…所謂“天神様”だ!!
Suikyo-Tenmangu Shrine or Tenjin, Fukuoka on OCT 27, 2015 (1)
↑天神地区の一隅に、辺りの地区名の由来となった“天神様”である「水鏡天満宮」は確り現存している。

10月27日…小倉を起点に、日田を経て久留米に至ったところで雨が少し強くなり、福岡に至っても雨は続いた。福岡まで至ると…正しく天神地区に在勤である旧友の顔でも視たくなる…連絡を取って、夕刻に「コーヒーブレイク」を愉しむという運びになった…落ち合って街のカフェに入り、その「コーヒーブレイク」を愉しみ、一寸辺りを歩いた時にこの水鏡天満宮に行き当たったのだ…

水鏡天満宮…“天神様”として祀られることとなる菅原道真は、京から太宰府―天神に在る西鉄の駅から列車に乗って訪ねるのが便利な場所だ…―へ向かう途中に博多を経由しているという。その博多上陸の際、水面に映る自身のやつれた姿をみて嘆き悲しんだという故事が伝えられ、水鏡天満宮が興ったという。城下町・福岡の建設に際し、1612年に黒田長政が「福岡城の鬼門」ということで、現在地の辺りに水鏡天満宮を遷して現在に至っているということだ…

そういう訳で、ずばり「天神様が在る辺り」ということで、辺りは天神と呼び習わされることとなるのである…

↓車輛や人々の往来が盛んな地区の一隅が「すっぽり」と「静かな境内」というような趣になっている…
Suikyo-Tenmangu Shrine or Tenjin, Fukuoka on OCT 27, 2015 (7)
↑こうした「賑やかな中に静かな空間」という「不思議な感じ」が面白い…

↓朱塗りの建物が、日が傾いて薄暗くなった中に在ると、何やら「艶めかしい」感じもする…
Suikyo-Tenmangu Shrine or Tenjin, Fukuoka on OCT 27, 2015 (4)

↓ここの様子を何となく視ていると、時々参拝する人の姿も見受けられる。受験をする学生さんという雰囲気の方が目立つ…
Suikyo-Tenmangu Shrine or Tenjin, Fukuoka on OCT 27, 2015 (2)

よく知られている神社ではあるが、仰々しい感じでもない、「街の普通の神社」という雰囲気ではある…何度か立寄っている福岡の中で、何となく気に入っている場所の一つである…

この後…博多駅周辺で過ごし、夜行バスで広島へ移動したのだった…
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2015年12月10日

久留米:水天宮(2015.10.27)

列車で何度も通り過ぎているか、乗換でホームに立ったことが在る駅でも、「そう言えば、ここで下車して改札口から駅周辺へ出た記憶が無い…」ということになっている駅は存外に在るものだ…私にとって、久留米駅は長くそういう存在だった…

古くからの地名の由来というものについては、判り易い例も在れば、「実はよく判らない」という例も在るのだと思う。“久留米”は…一寸調べる限り…

上古、大陸から渡来した機織りの工人集団がこの地に住んでいたので「呉部(繰部くりべ)」の居住した地、或いは「呉姫(くれひめ)」、「呉女(くれめ)」、「繰女(くりめ)」とよんだのがクルメに転訛したという説…

944年に出た「筑後国神名帳」というものに「玖留目神を祭祀した」との記述があり、これによるとする説…

用明天皇の皇子で、603年に新羅との戦いのために筑紫へやって来て、そこで病死したという「来目皇子(くめのみこ)」に由来するという説…

筑後川が大きく蛇行していることから、それを意味するクルメク(転く)を語源とするという説…

というような諸説が見当たるのだが、“定説”とされる話しは無く、「実はよく判らない」というのが結論のようだ…

それでもこの久留米という場所は、律令制による“国”が置かれて以降、筑後の国府が設けられていた地域に相当し、古くから栄えた地域であることは間違いない…現在でも久留米市は30万人規模の都市で、福岡市、北九州市に次いで福岡県第3位、九州全体では第8位の人口を擁している…

↓久留米駅の改札を出てみた…かなり天井が高い通路が設けられていた…
Kurume Station's building on OCT 27, 2015 (1)
↑久留米駅は、新幹線と鹿児島本線と久大本線の各列車が乗入れている…因みに…西鉄にも久留米駅が在るが、今般下車したJRの駅からはやや遠い…

10月下旬の旅は天候に恵まれた。「雨天で、やや行動が阻まれた…」という雰囲気になったのは…10月27日午後辺り、福岡県内であった…久留米駅から外へ出てみた際にも雨が交った…

駅の天井が高い通路の辺りに、地元の観光協会が設けたと見受けられる案内ブースが在り、水天宮への道順を尋ねると然程遠くないことが判り、簡単な周辺案内図まで頂いた…

↓多少雨が交った中、水天宮に着いた。筑後川の流れが見えるような場所に在った…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (1)
↑水と子どもを守護し、水難除け、農業、漁業、海運、水商売、また安産、子授け、子育てに関して篤く信仰され、各地に設けられている水天宮の「総本宮」が、この久留米の水天宮だという…

↓鳥居の脇の狛犬が、何となく…筋肉質というのか、細身な感じだ…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (15)

↓筑後川の直ぐ傍の境内は、「伝統の社」を擁する独特な雰囲気に満ちていた…若干の紅葉、落ち葉も混ざり、雨でしっとりと湿っていた…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (2)

源平合戦の後の時期、12世紀末に神社は興り、1650年に現在の場所に遷って整備され、それが今日の神社の基礎となっているのだということだ…

↓川を渡る風が、境内の木々に少し遮られる感で、雨交じりなりにも居心地は悪くなかった…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (8)

↓石造と視られる太鼓橋が好い…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (10)
↑平日で天候は好くなかったが、若干の参拝者も見受けられた…

↓境内に銅像が在る…久留米の水天宮と言えば…幕末の真木和泉である…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (6)
↑恐らく…最期を遂げた戦いに出陣した際の姿をイメージしたものだろうか…

真木和泉…真木和泉守保臣(やすおみ)…水天宮の第22代宮司だ。幕末期に活躍した人物である。所謂“国学”や“水戸学”の流れを汲む学問を収めていて、久留米の有馬家に藩政改革を建言したが容れられずに幽囚生活を送る羽目になった。その後、各地の志士と交わって尊王攘夷運動に身を投じる。京都で活動したが、1863年の「八月十八日の政変」で生じた“七卿落ち”で京都を離れた長州の関係者と共に離れた。やがて1864年の「禁門の変」に長州の同志達と共に参加する。久坂玄瑞ら同志達が討死した中で敗走して天王山に籠るが、追撃して来た会津勢や新選組との交戦で爆死してしまった。享年52歳という…

↓境内には、この真木和泉を祀る社も設けられている…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (12)

↓幕末の激動期に活動した人物に縁の場所でもあるが、永い伝統を誇る神社のような場所だけが醸し出すような雰囲気が非常に気に入った…
Suitengu Shrine at Kurume, Fukuoka pref. on OCT 27, 2015 (4)

この久留米の後、福岡から広島、神戸、奈良を経て京都に至るのだが、京都では真木和泉が加わった「禁門の変」の戦闘が行われた現場の一つである蛤御門を視て、そこで京都御所一般公開に出くわすということも在った。振り返ってみると…水天宮に立寄って、甲冑に身を包んだ真木和泉の銅像を視たことで、何らかの「導き」が在ったのかもしれない…

水天宮というのは、方々で見掛ける。「海運に関連」ということで、眼前に船が行き交うような街に住む者としては、何となく親しみを覚えるのだが…その“総本宮”に立寄ることが叶って善かった…
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2015年12月08日

広島の路面電車:<グリーンムーバ―・レックス>(1000型)(2015.10.28)

↓右側の車輛を視た時、思わず注目してしまった…
Tramcars at Hiroshima Station in morning on OCT 28, 2015 (2)
↑真新しい感じの低床型電車だ!!

↓路上の軌道で視ると、3連接の構造が判り易い…
Tramcars at Hiroshima on OCT 28, 2015 (11)

この型は<グリーンムーバ―・レックス>の愛称を冠せられた1000型である。2013年に登場した型だ…

広島の路面電車に在って、サービスを向上させるため、「低床型の運行区間を増やす」ことが目指された。5000型や5100型は全長が長いので、利用可能な区間と、利用し悪い区間とが在る。そこで「少し短い低床型」が用意されることになった…そこで…5連接構造の5100型を3連接に改め、5100型で30m在った長さを18.6mとした…

この1000型は、広島電鉄の「100年記念」の車輛ともなり、1001号と1002号がそれに充てられ<ピッコロ>、<ピッコラ>という特別な愛称も与えられた。1003号以降は<グリーンムーバ―・レックス>の愛称を冠せられている。“レックス”(LEX)は「Light Excursion」(小旅行)から取ったとのことである…

↓2015年時点で、この1000型は8編成運用されているようだ…
Tramcars at Hiroshima Port on OCT 28, 2015 (11)

↓右に1000型、左に5100型が見える…ドイツ生まれの5000型を参考に開発し、国産で調達することになった5100型と、「より多くの路線での利用」を図って5100型を「短く」するようにした1000型は、“親子”とか“兄弟分”という感じになるだろうか…
Tramcars at Hiroshima Port on OCT 28, 2015 (9)
↑これらの車輛…きっと永く広島で活躍して行くことになるであろう…

乗降し易い低床型電車…「誰でも安心して利用」ということで、今後も導入が拡がって行くことであろう。この真新しい感じもする1000型が「若干、年季が…」と見えるようになる頃には、どんな車輛が登場するのであろうか?そんなことを思わせてくれる車輛だ…
posted by Charlie at 18:01| Comment(0) | HDR/2015年10-11月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月07日

広島の路面電車:<グリーンムーバ―>(5000型)(2015.10.28)

広島という街は「路面電車が元気」というイメージが強い。実際、方々で路面電車を廃止していた状況が続いた中、広島では路面電車の運行が続いていて、路線廃止で不要になった車輛を迎え入れて使用する事例も多く見受けられた訳である。

そういう土地柄なので、広島を訪ねてみれば、新旧様々な車輛に出くわし、それらが同じように軌道を行き交う様を視るのは、少し愉しい。

↓そうした中、出くわして「おっ?」と注目したのは、この型の車輛である…
Tramcars at Hiroshima Station in morning on OCT 28, 2015 (1)
↑広島駅で停車中の様子だが、その大きさが目立つ…

↓路上の軌道上でも、「かなり大きい」感じがする車輛だ…
Tramcars at Hiroshima on OCT 28, 2015 (8)

これは<グリーンムーバ―>という愛称が冠せられた5000型だ。1999年から2002年に導入されたモノで、12編成が製造され、現在は1編成は「部品取用」になっていて11編成が運用されているのだという…

この5000型は、5連接になっている。A、C、E、D、Bという構成で、動力を備えた台車が先頭と最後尾になるAとBとに据えられ、中間のEに無動力の台車が据えられ、CとDとは浮いた型になっている。低床型の車輛である。大き目な窓と、低床の内装で、車内は広々した感じである。全長は30m52cmに及ぶという…大きい筈だ…

この車輛…ドイツ生まれだ!初めて導入された5001号は、ドイツの空港からロシア製の大型輸送機An-124―120tもの積載容量を誇る…全長=68.96m、翼幅=73.3mという巨大な機体の輸送機だ…―で広島空港に空輸されたのだそうだ…以降のモノは、ドイツから貨物船で日本国内へ運ばれて来たそうだが…

1999年頃と言えば…熊本で「日本初」の事例となるドイツ製の低床車が導入されて注目された直後だ。路面電車を元気に運用している広島でも、低床型に着目して導入したのである…

↓この車輛の独特な見栄え…出くわす都度に見入ってしまった…
Tramcars at Hiroshima Port on OCT 28, 2015 (4)

ドイツのメーカーのモノであるこの型だが、正面のデザインは広島の側で指定をした形状になっているそうだ。定評が在るドイツの低床車輛…と言っても、風土が違うことから、冷房の按配に今一つ納得出来ないとか、「所定の出口から、料金を支払って下車」という「乗客が動かなければならないルール」がドイツ辺りとは違うので、通路の勝手が悪いというような「もう少し改良の余地?」という面も在ったようだ…加えて、車輛そのものも高価になり、部品の調達にも時間を要するというような事も在り、「何とか国産で?」という考えに傾き、5100型を開発して行くようになる訳だ…

↓広島では、朝から暗くなるまで、何度もこの<グリーンムーバ―>という愛称が冠せられた5000型に出くわした…
Tramcars at Hiroshima Station on in evening OCT 28, 2015 (1)
↑こういう長い連接車だが、広島では運転士と車掌のコンビが乗務している…

「より運用し易く」という意味で、後発の車輛の“国産”という方向性を導き出しはしたが、この5000型は「日本の路面電車に低床型車輛が普及する契機」になった存在かもしれない。「日本初」こそ熊本に譲った型だが、この車輛が10編成から導入されて動き回ることで、かなり多くの人が「低床型の好さ」を知ることになった訳である筈だからだ…

5100型は「本当に欧州風な、長い連接の低床型電車」という感だったが、この5000型は「本当に欧州生まれの、長い連接の低床型電車」である。またゆっくりと眺めたり、乗車したいものだ…
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2015年12月04日

鹿児島:ザビエル公園(2015.10.24)

鹿児島の街で、“天文館”という繁華街の呼称をよく耳にする。路面電車の停留所にも<天文館通>という名前が在るが、他方で「天文館○丁目」というような住所は無いようだ…

繁華街の天文館辺りだが、歩き回ってみると「一寸、面白い!」というものに存外に出くわす…

↓こんなモノに出くわした…
St Francisco Xavier at Kagoshima on OCT 24, 2015 (1)
↑古い建物の、壁の一部のように見える代物だが…それを以て“記念碑”のようにしているようにも見える…

これは、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを記念して明治時代に建てられた教会の一部で、第2次大戦下に消失してしまったという建物なのだという…教会そのものは後年再建されていて、この“記念碑”のようになっている壁の傍に在るのだが、辺りは「街の小さな公園」という感じになっている。<ザビエル公園>と呼ばれる。

天文館地区というのは…藩政期(江戸時代)に「暦の作成」を目指して天体観測を行う場所を設けていたことに因む呼び名であるという。当時、辺りは島津家中の重臣達の屋敷が集まった地域だった。<かごでん>のガイドさんの受け売りだが、重臣達の屋敷というのは、今で言えば「一寸した規模の小学校の敷地全部」という感じの広いモノだったという。そういう屋敷の敷地が連なっているということは…灯りを使う建物の密度が薄く、夜間に星を望み易かったということになる…

「一寸した規模の小学校の敷地全部」という感じの広い屋敷を構えた重臣達…そういう人達は“千石”というような規模の知行を島津侯から与えられていた…そこで…辺りは寧ろそれに因んで「千石」という通称になって、それが後年に地名化した…この<ザビエル公園>辺りは、「東千石町」という住所だ…

↓古い壁の辺りに、少し年季が入った胸像が在る…
St Francisco Xavier at Kagoshima on OCT 24, 2015 (3)
↑「S. FRANCISCO X.」…Sは「聖」で、「フランシスコ」の名はそのまま綴られ、「ザビエル」の姓はXに略されている…

1549年、イスパニアの宣教師フランシスコ・ザビエルは鹿児島・祇園之洲に上陸したと伝えられる。祇園之洲というのは…現在は<石橋記念公園>が設けられ、移築した江戸時代の石造橋梁が在る辺りに近い場所の海岸部だ…この教会の壁の一部を利用した記念碑は、1949年にザビエルがやって来て400年であることを記念して設けたものなのだそうだ…

↓直ぐ傍に3人の人物の像が据えられていた…概ね、人物達の等身大の像である…
St Francisco Xavier at Kagoshima on OCT 24, 2015 (4)
↑これは1999年に設置されたものらしい…ザビエルがやって来てから450年の記念ということだ…中央がザビエル、左がヤジロウ、右がベルナルドだという…

ザビエルはヤジロウと共に鹿児島に上陸し、後年欧州へ出ることにもなるベルナルドと出会っているという…ザビエルは、鹿児島には1年間程度居たようだ…

ザビエルは鹿児島の後、肥前平戸、周防山口、更に堺を経て京に至り、山口や平戸での活動の後に豊後府内(大分)に入る。1551年に鹿児島のベルナルドらを連れて日本を離れている…そして1552年、ザビエルは中国で他界した…

「キリスト教伝来」や関連する様々な事柄は、日本史の中ではなかなかに大きな出来事の筈だ。そういう出来事を伝えるモノが、「街角の、近隣の子ども達が遊んでいる様子さえ見受けられる場所」にさり気なく置かれているのが、何となく好かった。
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2015年12月03日

阪堺の路面電車:<堺トラム>(1001型)(2015.10.31)

「阪堺の電車」と言えば、新旧様々な車輌が見受けられるのが愉しいというようなことと、殊に非常に古い車輌も現役であるということを思い浮かべてしまうのだが…近年は低床型の新しい車輌も導入されている…

古い電車の中には、乗降口のステップが少し高い感じの車輌も見受けられる。阪堺の1日乗車券を手に方々を巡っていた中、小柄でやや高齢な方が、荷物を手に「どうやって乗車したものか?」た少々難儀をしていて、辺りに居た若い男性がすうっと近寄って、さり気なくその方に手を貸していた場面を視掛けた。大阪の南側から堺に掛けての、古くからの住宅や商店が入り交じったような街を行く電車での、何か人情味溢れるような光景でもあったが、それでも「誰でも安心して楽に乗降が可能」という車輌は望ましい筈だと思った…

↓そんな様子を視掛けた同じ日に…これに出逢った!新しい低床型の車輌である!!停留所の地面から車内へは、段差が殆ど無い。「エレベーターに入る」のに近い感覚で乗車出来るのだ。
Abikomichi Tramcar Stop on OCT 31, 2015 (10)
↑これが<堺トラム>という愛称を与えられ、現在は3編成が運用されているという、2013年に初登場したという新しい電車だ!!

↓一寸乗車してみた…シートには、なかなか凝ったデザインのクロスが掛けられていた…
Abikomichi Tramcar Stop on OCT 31, 2015 (16)
↑3編成在る<堺トラム>は、緑を使った1001号(「茶ちゃ(ちゃちゃ)」)、紫を使った1002号(「紫おん(しおん)」)、青を使った1003号(「青らん(せいらん)」)と各車毎にイメージカラーと愛称が在るようだ。私が乗車したのは1003号の「青らん」だったようだ。シートのクロスも青系だ…青は堺の海の色や、市の旗の色に通じるもので、「青らん」と平仮名の“らん”に敢えてしたのは色を示す“藍”や電車が「走る」(run)のランなど、色々な意味が込められているという…

他所の方が乗っていなかった、私が座った正面のシートの写真を撮ったが、車内のシートはクロス型とロング型のモノが混在していて、札幌で乗車したA1200(<ポラリス>)と配置がよく似ていると思った。札幌の低床型は2012年初登場で、堺では2013年なのだから、似たような時期に設計されている筈で、基本レイアウトは似て来るのであろう…或る程度座席を多くしながらも、通路や立席の部分の広さを確保し、加えて低床を実現するとなれば、自ずと車内のレイアウトも固まるような気もする…

↓こちらの角度は、1003号「青らん」の命名由来になった、青いアクセントが見え易いかもしれない…
Abikomichi Tramcar Stop on OCT 31, 2015 (15)

↓これは堺市内の軌道を走行している様子だ。(厳密には信号で停止している場面になるが…)
Tramcars around Myokokuji-mae Stop on OCT 31, 2015 (1)

↓我孫子道停留所近くの車輌基地にも<堺トラム>が停車していた。
Hankai Tramway Co. at Abikomichi, Osaka on OCT 31, 2015 (4)
↑これは1002号の「紫おん」のようだ。紫のアクセントが美しい!!

この<堺トラム>!!何か豊かな“商都”としての歴史を負い、その豊かさの故に育んだ麗しい文化の香りがするような色彩を帯びて、「今求められる!」更に「近未来も斯く在って頂きたい」というような機能を備えた車輌である。何か出くわすと嬉しくなる…

↓序でながら…こういう、ある程度精巧に車輌が再現されたNゲージも!!

鉄コレ阪堺電気軌道1001形「紫おん」【トミーテック・256571】「鉄道模型 Nゲージ TOMYTEC」



↑告白すると…入手してしまった…

<堺トラム>…また眺めに…更に乗車しに、沿線を訪ねてみたいという想いが膨らむ…
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2015年11月27日

日田駅で見掛けたディーゼルカー(2015.10.27)

日田駅というのは、彦山線が乗入れていて、久大本線の上に在る駅だ。各路線の列車が発着していて、存外に色々な種類の車輛が視られる駅だ…日田から久留米へ移動しようとした際、「やや時間が在る」と思いながらも、「ホームで車輛でも眺めていよう」とホームに出ていたのだが、その僅かな間だけでも何種類ものディーゼルカーを見掛けた。この辺り…非電化区間である…

↓ホームに出て、こういう「鮮やか!!」という光景に出くわした…
Trains at Hita Station on OCT 27, 2015 (5)

右端の赤い車輛…キハ200だ。1991年に初めて登場した型で、近年に至るまで増備されており、九州各地で見受けられる。写真の赤いモノの他、蒼いモノや黄色のモノも在る。地域毎に色分けしているように見受けられる…

真中の白い車輛…キハ47だ。これは1970年代に登場した“40系ファミリー”の車輛である。九州ではJR化以降、この「アイボリーに青ライン」の塗装になっているようだ。長崎方面では、新しいキハ200系が投入されるか、他の種類の車輛が運用されていて見られないようだが、未だ九州各地で見受けられる。停車中の車輛は、日田へやって来た際に利用した彦山線を小倉方向へ進む予定の列車だったようだ…

左端の黄色の車輛…キハ125だ。1993年に製造された車輛で、主に各地のワンマン運行の区間―比率が高まっているように見受けられるが…―で投入されている。佐賀県方面で乗車した記憶が在るが、日田を含む彦山線や久大本線でも活躍しているようだ。この時は、入替の途中で、乗降する場所ではない線路の上に停車していた…

こうして視ると…JR九州を利用する旅に際して「或る程度高い確率で出くわすディーゼルカー」が勢揃いした感だ…

キハ200に関しては、“色違い”は随分と印象が異なるのだが、他に「1輛運行」に対応するように運転台を前後双方に設けたキハ220が在り、キハ220については運転台の上方の形状が少し違うモノも見受けられる…

キハ47…この国鉄時代からの車輛!これから先、どの位活躍し続けるのか判らないが、何か出くわすと少し嬉しくなる…

キハ125は、キハ200やキハ47に比べると、やや出くわす機会が少なめだが、これは少し面白い。“兄弟”とでも呼ぶべく基本設計が同じ車輛が他の鉄道会社でも見受けられる。新潟鐵工所が地方鉄道向けに製造した車輛「NDCシリーズ」というモノらしい。九州では島原鉄道のキハ2500、松浦鉄道のMR-400が見受けられるという。(双方共、利用した経過が在る…)

そういうようなことでディーゼルカーを眺めていると、赤いキハ200がホームを離れて場所を空けた。そしてそのホームに乗客が集まり始めた。「何か列車が来る?」と思って様子を伺っていると…

↓こういう車輛が現れた!!
Trains at Hita Station on OCT 27, 2015 (9)
↑特急<ゆふいんの森>だ!!

<ゆふいんの森>は博多から鳥栖、久留米を経て日田に寄り、大分県内を進んで湯布院、更に大分や別府を結んでいる列車だ。(当然、大分県側から博多を目指す列車も在る…)

所謂“観光列車”として非常に人気が高いと聞く<ゆふいんの森>…「機会が在れば乗車してみたい」というように思ってはいたが…実は間近で視た記憶も無かった…今般、日田でこうやって間近に視られて好かった…

↓<ゆふいんの森>を見送った後…空いたホームに黄色のキハ125が滑り込んで来た…
Trains at Hita Station on OCT 27, 2015 (13)
↑これに乗車して、久留米を目指した…この種の車輛に乗車すると…何となく落ち着く…「短めな編成のディーゼルカー」というのに、近年は馴染んでいるからであろうか?

↓久留米へ向かう途中…<ななつぼしin九州>と擦れ違った…

↑車内で前方に歩み寄り、運転台脇の窓から動画を撮ってみた…そういうことをしていると、運転士さんはさり気なくワイパーを動かし、折から降って来た雨の粒を払い除けてくれた…(ありがとう!!)

考えてみれば…<ななつぼしin九州>も非電化区間を走る場合も在るので、先頭の機関車はディーゼル機関車だった…

日田に立寄り、JR九州が運用するディーゼルカー等「非電化区間で活躍中の車輛」を色々と視ることが出来た…
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2015年11月26日

肥薩線・日豊本線<はやとの風>(2015.10.23)

2004年に九州新幹線が部分開業した際、鹿児島中央・吉松の区間に関して、鹿児島県内等を巡るための列車として新たな特急列車が設定された。それが<はやとの風>であり、これ以降に南九州等で“観光列車”が続々と登場する切っ掛けともなった列車である…

昨2014年の九州訪問で、鹿児島に滞在した後に「佐賀辺りまで北上…」と考えた場面で、この<はやとの風>をルートに組み込んでみた。鹿児島中央から吉松へ北上した…

↓昨年の“北上”での経過を纏めて在った…

>><はやとの風>が停まる嘉例川駅(2014.12.19)

>><はやとの風>が停まる大隅横川駅(2014.12.19)

>><はやとの風>から<しんぺい>に乗り継いだ吉松駅(2014.12.19)

今般は、吉松から鹿児島中央と“南下”してみた訳である…

↓<いさぶろう>が吉松駅に到着して、少し後に<はやとの風>が現れる。2輛で運行だ…<いさぶろう>の吉松駅到着時には「<はやとの風>へお乗換の御客様は、そのままホームで暫く御待ち下さい」という客室乗務員のアナウンスが列車内に流れる…
'Hayato no Kaze' at Yoshimatsu Station on OCT 23, 2015 (1)
↑昨年は、この「少し後に現れる<はやとの風>」で吉松駅に着き、待機して<しんぺい>に看板を替えた<いさぶろう>の車輛に乗込んで北上した。綺麗に逆コースを進む型になった…

↓大隅横川駅では、北上中の列車が待ち合わせをしていた…
Osumi-Yokogawa Station on OCT 23, 2015 (1)
↑<はやとの風>が停車して程無く、列車は北上を再開した…

↓大隅横川駅も、味わい深い建物だ…
Osumi-Yokogawa Station on OCT 23, 2015 (4)

↓南下する場合、駅舎から離れた側のホームに列車は停車する…
'Hayato no Kaze' at Osumi-Yokogawa Station on OCT 23, 2015 (3)
↑この日の蒼空に、漆黒の車体が映える!!この<はやとの風>も、“40系ファミリー”のディーゼルカーを改装した車輛を投入している。

↓「鉄道というものが開通した頃」から「基本的に、ずうっとそのまま」という嘉例川駅…こういう場所で「一寸様子を…」ということも出来るように、5分間程度停車してくれるのは嬉しい!!
DSCN5480_1_2_3_4_tonemapped
↑それにしても…こういう程度の旧さの駅舎が、或る程度綺麗に残るというのも…「多量の積雪」のようなものでの傷みが少ないからであろう等と想像する…

↓「夕刻へ向かって行く」というような雰囲気の時間帯だったが…写真では「空が白くなってしまう」程度に陽射しが強く感じられた…
'Hayato no Kaze' at Kareigawa Station on OCT 23, 2015 (2)

↓やがて列車は、淡々と進んで鹿児島中央駅に至る…漆黒の車体が妙に好い…
'Hayato no Kaze' at Kagoshima Chuo Station on OCT 23, 2015 (3)

最近では…然程縁が在るでもないのにも拘らず、鹿児島中央駅に関しては「何度も乗降していて、何となく馴染み」と思っていて、到着すると「安堵感に似たような何か」を感じることが在る…

この日も、鹿児島中央駅で「安堵感に似た何か」を覚えながら、少しばかり馴染んだ鹿児島でゆっくりとしてみようと街へ出てみたのだった…
posted by Charlie at 18:10| Comment(0) | HDR/2015年10-11月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

肥薩線 人吉・吉松間 <いさぶろう>(2015.10.23)

肥薩線の人吉・吉松間は、難工事の末、1908(明治41)年に開通した区間である。これに伴って、門司から鹿児島までの九州を縦貫する鉄路が出来上がったことになる…

肥薩線の人吉・吉松間が築かれたという史実には、「門司から鹿児島までの九州を縦貫する鉄路が出来上がった」という歴史的意義が在る訳だが、そこには長いトンネルや、ループ線、スイッチバックというような「山を越えて安全に列車を運行する工夫」が凝らされた区間も見受けられる。そういう鉄路が「敷設されていること自体」を、産業や地域の歴史を伝える財産と見做し、そこを列車で通って体感する“観光列車”というものが運行中である。

人吉・吉松間で最も長いトンネルである<矢岳第一トンネル>には、北側の入口に当時の逓信大臣であった山縣伊三郎の揮毫で「天險若夷」(てんけんじゃくい)という額が、南側には鉄道院総裁だった後藤新平の揮毫で「引重致遠」(いんじゅうちえん)という額が各々埋め込まれている。「天險若夷 引重致遠」で「天下の難所を(トンネルによって)平地であるかのようにした御蔭で、重い貨物を遠くへ運ぶことが出来る」という意味になる。

このトンネルを通ることになる“観光列車”について、「南(吉松駅)から北(人吉駅)へ」の列車は後藤新平がトンネル入口の額を揮毫したことに因んで<しんぺい>という愛称を与えていて、「北(人吉駅)から南(吉松駅)へ」の列車は山縣伊三郎がトンネル入口の額を揮毫したことに因んで<いさぶろう>という愛称が与えられている。

↓この“観光列車”について、2014年に吉松・人吉の区間で乗車してみた経過が在る…

>><しんぺい>が停まる真幸駅(2014.12.19)

>><しんぺい>が停まる矢岳駅(2014.12.19)

↑この時は「南(吉松駅)から北(人吉駅)へ」の列車で、<しんぺい>の愛称であった…これに乗車して以降、勝手に親近感も覚えて、明治・大正期に大活躍した後藤新平に纏わる本を幾分読んでみたということも在った…それも「興味尽きない旅の副産物」の一種ということになろうが…

“前置き”のような話しで文字数が嵩んでしまった…

今般、<SL人吉>で熊本・人吉間を南下出来ることになって、直ぐに思ったのは<いさぶろう>で吉松へ向かい、そのまま<はやとの風>で鹿児島中央に至り、多少馴染んだ鹿児島で「念願の8620型蒸気機関車牽引の<SL人吉>に乗車出来た」ことに関して、ささやかに“祝杯”ということにしたくなった…<いさぶろう>に関しては、混み合う場合も在るようだが、<SL人吉>のように「ダメで元々位の考えで、窓口に行って尋ねる」という程でもない…席は簡単に確保出来た…

↓吉松から人吉へ<しんぺい>として到着した列車が、<いさぶろう>と看板を替えて折り返す…隣のホームには、八代や熊本を経て、豊肥本線を通り、阿蘇を越えて大分県内の各駅を目指す<九州横断特急>が待機している…
Hitoyoshi Station on OCT 23, 2015 (4)

↓この時間帯は、ホームの地点毎に「光の当たり方」に差が在り、列車の色の見え方が色々で面白い…
'ISABURO' at Hitoyoshi Station on OCT 23, 2015 (3)
↑この列車は2輛で運行が基本のようだが、この日は増結車が加わって3輛で運行だった。車輛は、かの水戸岡デザイナーの案によるもので、「いさぶろう・しんぺい」と2つの愛称が大書されている。

↓小学生位の頃に乗車した記憶が在る旧い車輛以上に、「懐かしいような古めかしさ」を醸し出している。2004年頃に登場した車輛なのだが…
'ISABURO' at Hitoyoshi Station on OCT 23, 2015 (6)
↑この「いさぶろう・しんぺい」として改装を施して登場したのは2004年だが、本体はもっと以前から活躍の“40系ファミリー”なディーゼルカーである…

↓車内の、私が陣取った辺り…
'ISABURO' at Hitoyoshi Station on OCT 23, 2015 (7)

↓大畑駅周辺の、ループやスイッチバックが組み合わさった鉄路…見え易い辺りで、2分程度停車してくれる…
Around Okoba Station on OCT 23, 2015 (2)
↑難工事で開通したこうした区間…貴重だ!!旅客輸送の実績としては、廃止を余儀なくされてしまった区間よりも少ないらしいが…こういう「財産」を護っている様子に出会える!

↓<いさぶろう>は山間の鉄路を進み、この区間の概ね“最高地点”に相当する矢岳駅に着く…
'ISABURO' at Yatake Station on OCT 23, 2015 (2)

↓この日は、逆光と順光で車輛の色の見え方が随分と異なった…
'ISABURO' at Yatake Station on OCT 23, 2015 (1)
↑昨年は「積雪の見受けられる中」でこの車輛を視たのだったが、今般は「蒼く輝く空と、マダマダ濃い緑」が鮮烈だった…

↓好天が「過ぎた」ためか、遠景が酷く霞んでしまっていたが…この矢岳辺りの車窓は素敵だ!!
Views from train window around Yatake on OCT 23, 2015 (1)
↑ここでも列車は2分間程度停車してくれる…

↓“田の神さぁ”が迎えてくれた真幸駅…
Masaki Station on OCT 23, 2015 (1)

↓真幸駅に停車中の<いさぶろう>である…
'ISABURO' at Masaki Station on OCT 23, 2015 (5)
↑運転台の辺りに“ワンマン”の表示が在る。JR九州では、2輛で運行する列車は、原則的に「運転士のみの体制」で運行しているようだ。(時々、2輛でも車掌が乗務しているのを見掛ける…)<いさぶろう>等に関しては、車掌ではなく客室乗務員が乗務している。“乗客目線”では、客室乗務員も車掌に似たこともしているが…今般、増結で3輛運行だったことから、<いさぶろう>に車掌も乗務していた…

↓やがて列車は吉松に至る…
'Isaburo' at Yoshimatsu Station on OCT 23, 2015 (1)

↓車輛はそのまま<しんぺい>と看板を替え、今度は人吉へ向けて北上する…
'Isaburo' at Yoshimatsu Station on OCT 23, 2015 (4)

“40系ファミリー”なディーゼルカーを視ると、何か「鉄道車輛!!」と強く主張しているように思えて安心出来るのだが…その車輛を鮮やかで、同時に渋い赤系の色に染め、「本当の旧い車輛以上に、古めかしく懐かしい感じがする?」という内装にしたこの車輛による列車…また何度でも出会いたい感じがする!!

因みに…人吉・吉松間は5往復の列車が運行されていて、その中の2往復が<いさぶろう/しんぺい>である…
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2015年11月25日

舞子公園&明石海峡大橋(2015.10.29)

特段に建築に明るい訳でも何でもないのだが…時々見掛ける「大きな橋梁」というようなモノについては、とにかく凄いと思ってしまう。

「大きな橋梁」と言えば…瀬戸内海であろう。「世界の大きな橋梁」というようなランキングに入りそうな巨大なモノが幾つか見受けられる…あれは2010年だったが、思い付いて岡山県の児島に立寄って、瀬戸大橋を眺めてみたことが在った…それを思い立ったのは、西へ向かって列車で移動中、車窓に明石海峡大橋を視たことが切っ掛けだった…

というようなことで、関西辺りから中国地方へ抜ける経路を通過中に、何度か明石海峡大橋を車窓に視た経過は在ったのだが、近くで眺めてみたことは無かった…今般、神戸空港から姫路への移動の途次、車窓に明石海峡大橋を視て「一寸寄りたい」と思ったのだが…姫路に入って姫路城を観る時間が足りなくなるかもしれないと、アッサリ通過した…その後は九州に渡り、広島まで戻って、“帰国”の飛行機を目掛けて関西に行くことになった際…「そうだ!姫路を“関西の起点”にして…」と思い付き、姫路で夜を明かして、早朝から山陽電車で動き始めた次第だった…

↓姫路から神戸三宮を経て大阪の梅田へ向かう列車が通る駅の一つ…神戸市域の西の端辺りに在る舞子公園駅だ。確り「明石海峡大橋まえ」とも駅名表示看板に書かれている…
Maiko Park Station-Sanyo on OCT 29, 2015

この辺りは、山陽電車の線路とJR西日本の線路が概ね並行して敷設されている。山陽電車の舞子公園駅の直ぐ海側にJR西日本の舞子駅が在る。そのJRの駅側に一寸進むと、直ぐに舞子公園が拡がっていて、明石海峡大橋も見える…

↓石碑と素直に呼ぶべきか…「石碑の体裁の看板」と呼ぶべきか…とにかくも<明石海峡大橋>と石に刻まれていて、眼前の巨大な橋梁が一体何なのかを訪れる人達に伝えてくれている…
Views at Maiko Park on OCT 29, 2015 (2)

↓とにかくも大きな橋で、対岸の橋の反対側は淡路島だそうだ…
Views at Maiko Park on OCT 29, 2015 (3)

全長は3,911mも在る…“吊り橋”としては、現在「世界最長」なのだそうだ…海の上に設けられた塔は高さが298.3mだという…

「高さ298.3mの構造物」というのは…日本国内でも東京スカイツリー(634.0m)、東京タワー(332.6m)、あべのハルカス(300.0m)に次ぐもので、横浜ランドマークタワー(296.3m)よりも高いということになってしまう…橋を支える構造物として海側に聳え立っているので、「大きいなぁ…」と何となく思う程度だが…あべのハルカスと大差が無い訳だ…

↓因みにこちらは天王寺で見掛けた高さ300mのあべのハルカス(10/31撮影)だが…明石海峡大橋の塔も、塔の足下辺りに近付けば、こういう感じで視える訳だ…
Tennoji area in Osaka on OCT 31, 2015 (9)

↓本州から淡路島へ…巨大な金属の生物でも横たわっているかのように架橋されている…思わず「概ね真下」のような位置から眺めていた…
Views at Maiko Park on OCT 29, 2015 (6)

この明石海峡大橋が見える辺りの舞子公園は、近隣の皆さんの憩いの場になっている様子で、訪ねた際には未だ“朝”の時間帯だったのだが、愛犬の散歩やジョギングという人達を存外に多く見掛けた。何やら“神戸マラソン2014”というようなロゴが見えるTシャツ―何時頃始まったのかは承知しないが、神戸でも大きなマラソンの催しが毎年在るのであろう…―を着ていた方も在って、所謂“市民ランナー”が練習をするコースにもなっているのだと思った…

↓橋の傍に、少し個性的な外観の建物が見受けられる…
Views at Maiko Park on OCT 29, 2015 (16)

この建物は<孫文記念館>というものだ。辛亥革命の孫文は日本に亡命して神戸に潜伏した時期が在るという。そうした縁で記念館が神戸に設けられたものである。個性的に視える外観の建物は、神戸在住の華僑が舞子地区に建てていたもので、明石海峡大橋建設に伴う周辺道路や公園の整備に際して現在位置に移築されたようだ…八角形の楼閣は、<移情閣>と言うそうだ。この別荘は、1913年に孫文一行が来日した際に歓迎会を催したという出来事も在ったという由緒が在るらしい…残念ながら…朝に時間帯に立寄り、記念館のオープンの前だったので、中は見学しなかったのだが…

↓「なかなかに好い場所だ…」と暫し眺めていた…
Views at Maiko Park on OCT 29, 2015 (17)

結局、この明石海峡大橋を望む舞子公園に暫く居た後、山陽電車で東へ進み、神戸市内に出た…移動しながら…明石海峡大橋を望む舞子公園を想い起し、「きっと再訪しよう」と考えていた…他方で、何度か「車窓に遠く望む」ということをしていた明石海峡大橋を間近で視られて非常に好かった…
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2015年11月24日

京都御所―「一般公開」に遭遇(2015.10.30)

何処かへ出掛ける場合…「出先で少し変わった催し等をやっている」ということを承知した上で、それを「目掛ける」とか「場合によってそこにも…」と考慮に入れた上で出掛けるという場合も在ろう…が、特段にそうしたことを事前に承知せずに出掛けて、正しく「遭遇」という感じになる場合も在るであろう。

今般、その「事前に催し等を承知せずに出掛け」、正しく「遭遇」という感じになる場合という出来事が在った。京都御所の「一般公開」である…

京都で、思い付いて西本願寺に向かってから島原に寄り、京都駅に出てまた街を動き回ろうとした。何かで「平安京が建設されたような頃の大きな模型が在る資料展示コーナーが在って…」と聞いていて、うろ覚えで最寄駅らしい地下鉄の丸太町駅に行ってみた…うろ覚えで駅に向かい、「とりあえず出口案内でも視れば判るだろうか?」と思って案内を視たのだが、今一つ要領を得なかった…他方…丸太町駅は、嘗ての“御所”に近い辺りで、案内の中に<蛤御門>という文字を見付けた…

<蛤御門>と言えば…<蛤御門の変>という幕末の事件が知られる。長州勢は京都を追われる型になり、“巻き返し”の謀を巡らせるが<池田屋事件>でそれも潰えてしまう。そして長州勢は武装した軍を起こして京都に進撃し、幕府側勢力と武力衝突し、京都の市内や近郊で戦闘が展開した…<蛤御門>はその戦闘の舞台となっている場所である…

幕末辺りに、何かの事件が在った場所として知られているような場所に関して、その場所が綺麗に残っている場合も在るが、「小さな石碑が在るだけ」というような場合も多い…<蛤御門>は「どういう按配だろうか?」と近付いてみた…

↓<蛤御門>は、“門”の体裁を留めて残っていた…
'Hamaguri Gomon' gate of Imperial Palace at Kyoto on OCT 30, 2015 (1)

↓門扉に「鉄砲の弾の痕?」と見受けられる、やや不自然な傷が…
'Hamaguri Gomon' gate of Imperial Palace at Kyoto on OCT 30, 2015 (2)
↑幕末に戦闘が行われたということを静かに伝えるような感じだ…

こういう様子を暫し眺めていると…門の辺りに警備員が配置されていることに気付いた…何となく思う以上に人の出入りも見受けられた。門の奥は、言わば公園になっている筈で、人の出入り自体はどうということもない…しかし!そのうち、タクシーやバスが門を潜って道路に出る光景が見受けられ…しかもそれが断続するようになった…「“禁門”とも呼ばれた、御所へ続く門の一つである<蛤御門>が、“駐車場ゲート”になっているのは、一体どういうことなのだ!?!?」と思い始めた…

やがて、門の辺りに配置されていた警備員と通り掛かった人の会話が聞こえて、「<蛤御門>が、“駐車場ゲート”になっているのは、一体どういうことなのだ!?」の事情が判った…御所の「一般公開」が実施中で、別な入口から敷地の駐車スペースに入れたタクシーやバスは、<蛤御門>を出口に指定されていて、御所の見学を終えた人達を乗せて出て来ていたのだった…

「一般公開」ということは?特段に事前申込をしていたでもないが、見学が可能かもしれない…と考えて入口へ向かってみれば…手荷物検めは在ったが、無料で中を見学することが出来た!!建物に上ることは出来ず、指定の順路を巡って、建物や庭園等の様子が眺められるのである。こういうものは「何時でも」という訳にも行かない…ゆっくりと見学させて頂くこととした。まさしく一般公開に「遭遇」した感である…

↓入口から入って程無く眼に留めたのは、「大正天皇の即位の際に整備」という部分だった…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (13)

京都の御所…天皇陛下の宮殿である訳だが、現在の京都に“平安京”が拓かれて以来、御所は存在した。しかし、火災や自然災害や騒乱で建物が損なわれた経過が非常に多い…

平安時代が進む中、摂関家が大きな発言力を持つ時代や、院政の時代というようになって行くが、次第に“御所”は特定の決まった場所ではなく、天皇の代替わりの都度、或いは在位中でも、有力者の屋敷等を移動していた様子である。“里内裏”と称するそうだ…

14世紀に入り、所謂“室町時代”になってから、御所は「現在の場所」に定まったという。これも“里内裏”と呼ばれたものの一つということになろうが、それでも概ね現在地に固定したようだ…

現在の京都御所は、14世紀前半辺りからの伝統を受継いでいることになるのだが、それ以降も京都で戦乱や火災は多く見受けられ、残念ながら御所の建物も損なわれたり、再建されたりを繰り返している。現在の建物の多くは、明治天皇の前の代、孝明天皇の時代に出来たモノのようだ。

明治天皇が東京に遷った後、御所や周辺は一時荒廃傾向を帯びてしまうが、明治天皇がそれを残念がったことから整備されるようになったのだという。更に、大正天皇や昭和天皇が即位した際には、京都の御所で儀礼が催されているという。殊に大正天皇の即位の際には、一部新築も含めて、建物に随分と手が入った様子だ…

↓御所の主要な建物である<紫宸殿>を囲むように設けられている部分…何か「昔の都…」を想像させるような造りで、これが空の蒼にもよく映えていた…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (29)

↓凄く大きな生花が飾られていた。恐らく「一般公開」に合わせて準備したのであろう…見事だった!!
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (24)

↓これが、天皇が公的な祭礼等を行う<紫宸殿>だ…<右近の橘>の側から視た感じ…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (46)

↓<紫宸殿>の真正面から、天皇が着座するとされる辺りを見上げてみる…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (42)
↑確か…この種の場所は「直視しない」のが、昔のマナーだったかもしれないと思いながら、暫くこういう角度で視ていた…

↓何箇所も設けられている門は、菊の御紋が飾られていて、地味なようでいて、華麗な感じがした…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (32)

↓「盛り」には未だ少々早い感じではあったものの、なかなかに美しく紅葉している木々も見受けられた…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (38)

↓女官達の人形を配置して、中の様子を紹介している箇所も在った…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (53)

↓大小様々な建物が組み合わさって、内部は少し複雑な様子になっていることを想像させてくれるような様子が見え、少し面白いと思った場所…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (57)

↓庭園が一寸好い感じだと思って眺めていた…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (67)

こういう具合で、色々な建物が配置され、庭も設えられている御所の公開された区画を随分ゆっくり歩いて観て回った。天候も好く、なかなかに好い時間ということになった…

↓京都御所の画を多数含む、10月30日撮影の画を集めたアルバム…
>>Photomatrix - OCT 30, 2015

↓興味深く見学をし、出口から街の道路へ続く側に出ると、こういう看板が在った…
Kyoto Imperial Palace on OCT 30, 2015 (82)

公開されていた区画では、“宮内庁”という腕章をした係員が居たり、<皇宮警察臨時警備本部>というような札が掛かっている場所が在ったりという様子を眼に留めたが…恐らく、宮内庁や皇宮警察の関係者の皆さんの間では、この「京都御所公開」は年2回の定例的な一大行事で、きっと色々と大変なのであろう等と考えながら、烏丸御池駅の側へ歩いて行ったのだった…

室町時代位から“御所”だった伝統が在る一画ではあるが、より直截的には「幕末の様々な出来事の舞台」だった場所で、見学しながら色々な事が想い起された…その後、御所は明治時代から昭和の初めまでにも色々と使われた場所ということにもなる。

京都御所に関して「見学出来る」というように、事前には全く思っていなかったが、正しく“公開”に“遭遇”してしまった…御蔭で興味深い経験をさせて頂いた…実を言えば、「京都に寄ることが叶えば…こういう場所を訪ねて…」と全く考えていなかったということでもないが、それらを吹き飛ばして「御所の一般公開」で時間を費やしたが…それはそれで善い…一人で好き勝手に動いているのだから、そういう“計画外”も「在り」という型の行動をしてみるのも悪くは無い…
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2015年11月19日

広島:夕刻の原爆ドーム(2015.10.28)

早朝に到着した広島で1日を過ごし、日が傾いた頃になり、再び原爆ドームの辺りに至った…

↓朝、到着した頃に視た角度から再び原爆ドームを視るが、今度は「建物越しに見える空」が沈み行く太陽の光の影響を受け易い方角になる…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early evening on OCT 28, 2015 (11)
↑朝は然程気付かなかったが、辺りの木の一部が、存外綺麗に色付いている…

↓逆光気味になり、強い印象を与える“形状”が、半ばシルエットのようになる…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early evening on OCT 28, 2015 (5)
↑「気になる場所」に関しては、この時のように「敢えて違う時間帯に写真を撮る」というのが好いものだ…

↓飛行機雲なのか、少し不思議な形状の雲も見受けられた…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early evening on OCT 28, 2015 (14)

↓原爆ドームの足下、芝生になっていた箇所には、存外に落ち葉が目立った…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early evening on OCT 28, 2015 (22)

辺りのベンチに腰を下ろしてみる等して、少しの間ゆったりと原爆ドームと辺りの様子を眺めていた…

老若男女を問わず、日本人らしい皆さんも、一目で外国の方と判る皆さんも、或いは話していた言葉で外国からの方と察せられた皆さん等、三々五々現れてはこの原爆ドームを見上げ、写真を撮る様子が見受けられた…各々に、原爆の史実や、この原爆ドームがこうしてここに保存されているということへの何らかの想いが在るのであろう…

どうしたものか、辺りで猫の一家を見掛けた…「一家」としたのは、何れも黒っぽい毛の猫で、仔猫も含めて何頭かが辺りをチョロチョロとしていた…或いは、原爆ドームに住み着いているのだろうか?何か不思議な雰囲気が漂う猫の一家だった…

↓西寄りの空が日没頃の色合いに染まり、辺りが少し暗い感じになると、原爆ドームを照らすライトが何時の間にか灯っている…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early evening on OCT 28, 2015 (28)

往時も現在も、この辺りは「街の真中」だ…“あの日”には、辺りに居合わせた人達は激しい熱と爆風で焼かれてしまったか…或いは近くで重傷を負ってしまったような人達が、川の水を求めて彷徨っていたか…そういう恐るべき事態の現場であった場所だ…そういうことに想いが至りながら、何となく周囲を見回す…現在のこの辺りは、“平和公園”の名のとおり、正しく「平和な都市公園の一画」である…広島を訪れている来訪者も、地元の人も、普通に歩き回り、直ぐ傍の道路は車の量も多く、加えて路面電車も行き交っている。路面電車の直ぐ傍の停留所は、開業以来長く<相生橋>となっていたが、「かの原爆ドームの最寄は?」と余りにも頻繁に尋ねられるというので、1974年以降は<原爆ドーム前>となったのだそうだが…

↓これ位に薄暗くなり掛けていても、辺りを行き交う人は存外に多いままだった…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early evening on OCT 28, 2015 (23)

今般、多少強引かもしれないような感じで「広島の1日」を日程に組み入れたが…善かったと思っている…次が何時になるのか、或いはそもそも次の機会が在るのか否かが判らないが、是非とも広島を再訪したいものだという想いが、時間が経つにつれて湧き上がって来るような気がしている…
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2015年11月18日

京都:(西)本願寺(2015.10.30)

京都で“本願寺”と言えば2つ在る。何れも“自称”は「本願寺」のようだが、一般には「東本願寺」と「西本願寺」で通っている…

この両者の中、“東”には随分以前に立寄った記憶が在るのだが…“西”は寄った記憶が無い…そこで“西”を訪ねた一件を綴ろうとしているのだが…寺の名称に関して、とりあえず彼らの自称は“本願寺”なので、記事の題名は「(西)本願寺」としてみた…

前夜は奈良の宿に泊り、近鉄の急行列車で京都に移動した。近鉄の駅は、JRの駅と同じ大きな建物―『ガメラ3 邪神覚醒』という映画で、大怪獣ガメラが戦った場所…―に入っている…「京都駅から徒歩圏内」という場所を目指す場合、JRでも近鉄でも大差は無い…

後から気付いたのだが…嘗て島原という地区を訪ねた経過が在ったが、実は(西)本願寺はそこから遠くない辺りに在ったのだった…やや意外に思ったのだが、京都という街は、史跡やら名前が通った寺社が多いので「行ってみれば、知らずに近くに足を運んでいた経過が…」と気付くようなことも多そうだ…

↓立派な門から境内に入るようになっているが、凄く大きな御堂が並んでいる…(東)本願寺の流れや、その他の流れのものも合わせた話しなのかもしれないが、確か浄土真宗は「日本最大の宗派」だった筈で、その大本に相当する寺院だけのことは在る等と思って門を眺めていた…、
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (4)

↓門扉の一部に、なかなか手が込んだ透かし彫りが施された箇所が在った。こういう、大掛かりに見えるモノは、こうしたディーテールが面白い…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (6)

↓敷地の周囲は、何か時代劇に登場する“大名屋敷”とか、小規模な大名の“陣屋”のようなイメージだ。周囲が一寸した濠のような構造になったモノに囲まれている…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (24)
↑偶々だと思う…この日、濠に水は無かったのだが…

↓境内に入ると、大きく判り易い案内図が在る…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (27)
↑この種の案内図…個人的には結構好きである…

↓驚いたのは、この銀杏である…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (32)
↑遠くから見れば「一体、何の木だ?!」という感じである。かなり背も高いが、相当に幅広く、枝が這うように広く拡がっているのである…

↓境内の様々な建物は、永い歴史の中で何度も損なわれたり再建されたりを繰り返している様子だが、この銀杏は相当に長く現在地に留まっている様子だ…そうでもなければ、如何にメンテナンスが行き届いていても、こんなに大きく育つ筈も無い…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (31)
↑銀杏は、近くで火災が在っても生き残る場合が多いと言われる種類の木らしいが…きっとこの木は、本願寺でかの新選組が寝起きしていた時期や、幕末に京都で発生していた騒乱を見詰めていたことであろうし、更に明治から大正に時代が移った際に京都で催された大正天皇即位に関連する催事や、戦時中の緊張した感じや、戦後の街の様子の移ろいをじっと見守っていたことであろう…

↓申し訳ないが…御堂も在り難いのだろうが、何かこの「永い歴史の中で人々と街を見守り続けたであろう巨大な銀杏」にすっかり見入ってしまった…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (34)

↓これが唐門である…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (13)
↑出入りを停めるため、下の方に柵が設けられているが、華麗な飾りは視られる…

本来は、(西)本願寺のメインの御堂である御影堂に通じる辺りに据えられた門であるとのことだが、1618(元和4)年に現在在る辺りに移したのだそうだ…

↓華麗な装飾に眼を奪われ、暫し見入ってしまった…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (14)
↑「1日中眺めて飽きないような華麗さ」という意味で、「日暮門」という異称も在るらしい…

↓門扉に相当する部分に、ここまで華麗な装飾が施されている…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (18)

↓夥しい装飾の一つ一つに、何らかの意味が込められているような感じで、少し驚いてしまう…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (16)

↓こちらは太鼓楼だ…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (9)
↑江戸時代には、ここで太鼓を打って時を告げていたそうだ…

↓この太鼓楼の辺りに掲出された案内板に、新選組に関する言及が在った…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (11)
↑新選組の初期から活動していた島田魁という人物…土方歳三等と共に箱館戦争にも従軍したのだったが、戦後暫く経って京都に住むようになり、晩年は(西)本願寺の夜警の仕事をしていたと伝わっている…そうした言及が在って、本願寺の後には新選組縁の島原を訪ねたのだった…

↓この他、(西)本願寺に関連しては、門前町となっていた辺りに佇む、明治末年(1912年頃)に出来たという伝道院もなかなかに見応えが在る…
Hongan-ji Temple (West or Ryukoku) at Kyoto on OCT 30, 2015 (35)

ここでは、何か銀杏の存在感に圧倒された感である…そして太鼓楼で新選組を思い出した他、華麗な唐門にも驚いた…何か…「見落とし、見逃し」も在ったかもしれない…それでも満足度は高かった。そしてここが「京都駅から一寸歩く」という範囲の名所と判ったのも“収穫”だ。何かで京都に寄ることが在れば、再訪したいものだ…
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2015年11月17日

鹿児島:磯海岸から望む桜島(2015.10.24)

鹿児島市内を動き回る際には、鹿児島市交通局の1日乗車券が心強い味方である。路面電車、路線バスと市営交通に一通り乗車可能であり、加えて市営交通が運営する市内の名所を巡るバス<シティービュー>にも乗車可能である。今般も、その1日乗車券を到着した日の夕刻に用意し、翌日の早朝から、鹿児島から発つ夕刻に至るまで確りと利用させて頂いた…

午前中の間、市街から桜島が見える東寄りの方角に関しては、「北の国の住人」の目線では「殆ど夏?!」というような強い陽射しのため、遠景が見え難い状態が続いていた…実際、「殆ど夏?!」と感じた24℃か25℃という気温で、長袖Tシャツ1枚にジーンズ穿きという出で立ちで動き回っていたのだったが…そうしている間に陽が高くなる昼頃となっていた…そうなると、東寄りの遠景も見易くなる…

そういう具合に考えて、鹿児島中央駅前から<シティービュー>に乗車し、仙巌園に向かった…

仙巌園とは…薩摩・大隅に君臨した島津家が江戸時代に設けた別荘で、磯と呼び習わされる海岸部に在る。眼前の錦江湾を池に、桜島を築山に見立てた庭園が知られる場所である。辺りの海岸から望む桜島が美しい…

その「歴代の島津侯も愛でた桜島の景観」を愉しんでみたくなり…仙巌園前に<シティービュー>で乗り付けた後、「過去2回立寄っているから、今回は…」と仙巌園に入場せず、海岸を目指して歩いた…途中にやや広い駐車スペースも在るコンビニが在る辺りを通り抜ければ、直ぐに海岸だ。鉄道の線路が通っていて、踏切も在るやや交通路が多めな道を渡るので多少は注意を払うべきだが、直ぐに海岸に至る。夏は海水浴を楽しむ人達が大勢やって来る場所らしいが、それ以外の時季にもマリンスポーツに取組む皆さんの活動場所となっているように見受けられる場所だ…

↓桜島が姿をくっきりと見せてくれた!!
View of Sakurajima in afternoon on OCT 24, 2015 (1)
↑遥か昔から、この地方の歴史を見守り続けて来た火山…大正時代の噴火で、大隅半島と地続きになったということではあるが、正しく“島”として洋上に突き出した山である…何処と無く…地元の利尻を思い出してしまわないでもないのだが…

↓ギリギリの水際に歩み寄り、桜島の偉容を撮ってみる…
View of Sakurajima in afternoon on OCT 24, 2015 (5)

↓高い部分の岩肌…何か猛々しい感じだ…そして低い部分の緑が、何か柔かな感じがする…
View of Sakurajima in afternoon on OCT 24, 2015 (3)

暫く眺めてから、街の側へ向かう<シティービュー>に乗車しようと仙巌園前の停留所に向かった。「少々…暑い…」と、額に薄らと浮かんだ汗を長袖Tシャツの袖裾で拭いながら歩き…コンビニで思わずアイスクリームを求めてしまった…この日の25℃というのは…稚内では「正しく夏!!」なのである…翌日になって、稚内では「シーズン初めての降雪」ということが在ったのをしることとなったが…「時季外れの“夏季休暇”」と思いながら旅に出て、出先で「夏?!」という感じになった訳だ…

↓それにしても…「こんな風景を少し眺めてみる」というだけの目的で、遥々訪ねてみても後悔しない!!そんな感じだ…
View of Sakurajima in afternoon on OCT 24, 2015 (9)

この磯海岸から望む桜島も、何度でも出会いたいような「気に入った風景」の一つである…
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鹿児島:夜明けの桜島(2015.10.24)

「地元以外」の地域に関して、“関係性”と言えば善いのか、“感じ方”と言うのが妥当なのか、巧く表現し悪い“距離感”というもので区別出来ると思う…

鹿児島に関しては…2011年に初上陸を果たして以降、2012年、2013年に2回、2014年、そして今般と「毎年」のように訪れている…巧く表現し悪いのだが、何処か「居心地の好さ」を感じると同時に、「気に入った風景」が幾つも在り、時々それらに出会ってみたくなるのである…友人に「また鹿児島に寄ってしまって…」と話せば、「半ば“実家”か何かのような頻度で行っていないか?もう“珍しいモノ”も然程無いであろうに…」と笑われてしまった…然程の縁も無い地域ながら、何か「気に入った風景」を何度でも眺めてみたくなるということで、心の“距離感”として「近い!」と勝手に思っているかもしれない。住んでいる稚内からは、かなり遠い地域ではあるのだが…

↓これはその、鹿児島の「気に入った風景」の一つだ…
View of Sakurajima in early morning on OCT 24, 2015 (1)
↑鹿児島港の一隅に相当する辺りから望む桜島である…画は、日が高くなる少し前の時間帯に相当する…

この場所に関しては、2011年に初めて鹿児島に上陸しようとした際、図々しくも鹿児島市役所の観光の御担当にお訪ねして知ったのだった。「路面電車で訪ね易い辺りで、桜島が綺麗に見える場所?」という主旨でお尋ねしたところ、「繁華街の一画を占める“いづろ通”停留所から、地名の由来になった大きな石造の灯篭―“いづろ”とは「石灯籠」が転訛した語である。―が在る方向に向かえば海岸で、<ドルフィンポート>という商業施設が海岸部に在り、その先の緑地は桜島がよく見える」という情報を寄せて頂いた。2011年の初上陸の際に寄り、以降は鹿児島を訪ねる都度に立寄って桜島を仰ぎ見ている…2013年12月に立寄った際には、雨天で雲が垂れ込めていて、然程でもない距離に在る1,117mも高さが在る山ながら、視えなかった…その時以外は、「各々の表情」が視られた…

前日から好天であった。前日夕刻、好天の鹿児島に着いたが、何か「遠景が霞む」ような按配であった。早朝に至ってもそういう様子が続いているように見受けられた…

この<ドルフィンポート>辺りから視る桜島は、鹿児島の市街の東寄りに相当する。朝は、桜島の背後の空が暁色に染まる様が視られる場合も在る…

↓暫く様子を眺めていると、桜島の背後の空は色を変え始めた…
View of Sakurajima in early morning on OCT 24, 2015 (2)

↓山の背後が暁色に燃え始めた…
View of Sakurajima in early morning on OCT 24, 2015 (7)

↓程無く「燃える」感じは落ち着く…
View of Sakurajima in early morning on OCT 24, 2015 (10)

こういうような桜島の様子が見られると、勝手ながら「桜島に到着を歓迎して頂いている」という気分になる…そして何度でもこの風景に触れてみたくなるのだ…
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広島:朝の原爆ドーム(2015.10.28)

今般の旅では、「天候を司る何か」が私に好意的であった様子で、日程中に1日だけ「雨天に行動を阻まれ…」という感であったが、他は殆ど「好天!」だった…

実は博多駅隣接のバスターミナルで夜行バスに乗車する前…福岡県内で雨だったのだが…JR九州バスの真っ赤な車輛で到着した広島は好天だった…

↓真っ赤な車輛が到着した広島のバスターミナルは、都心部の紙屋町に在る…
The bus has just arrived at Hiroshima on OCT 28, 2015 (1)
↑バスの案内に在った到着予定時刻よりも多少早い到着で、順調な移動だった…

「(広島も)好天に恵まれて好かった」と思いながら、半袖Tシャツの上に長袖のワークシャツでジーンズ穿きというような出で立ちで戸外に出てみると、同じバスに乗って着いたのか、若い男性が直ぐ傍で携帯電話を手に話しながら歩いていた。「めっちゃ寒い」という言葉が聞こえた…「やや冷え込んでいる」と言える状態なのかもしれないが、「夏が完全に過去形」であると感じられるようになっていた場所から行っている私の感覚としては、「陽が高くなって行く前の、やや涼しい状態」と思っていた…

「広島に立寄る」という考え…『空白の天気図』に描かれた気象台を訪ねてみたいということで強く抱くようになったが、他に「原爆ドームの写真を撮りたい」という想いも在った。原爆ドームそのものに関しては、永く「視たい…」と思っていて、2009年に初めて立寄ることが叶い、以降は御無沙汰してしまっていた。当時は、非常に小さいフォーマットで写真を撮っていたので、現在となっては「やや不満…」な感じなので、多少満足度が高い写真を撮りたくなっていたのである…

博多でバスに関してターミナルの窓口で尋ねた際、バスはバスターミナルに着くと判ったが「好都合!」と思っていた。紙屋町に在るので、原爆ドームが近いのだ…

↓明るくなって来た空に、原爆ドームの姿が浮かぶ…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early morning on OCT 28, 2015 (4)
↑建物越しに消え行こうとする月が見えた…この画の方角が、西寄りの空を望む方角だと判った…

↓こういう様子を視て、「初めて原爆ドームを視た時に感じたこと」を思い返していた…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early morning on OCT 28, 2015 (5)
↑初めて視た時、「存外に小さい?」と思ったのだったが…それも無理からぬことで、ドーム状の丸い屋根は「建物の真中辺り」に相当し、1915(大正4)年の竣工後に<広島県物産陳列館>として開館して、原爆投下当時は<広島県産業奨励館>と呼ばれていた建物は、ドーム状の屋根を頂いた部分の両脇に構造物が存在していたのである。「ほぼ真上」からの強烈な爆風で、両脇の構造物が粉砕されてしまい、「建物の“3分の1”か“4分の1”」というような部分が残っているので「小さい?」と思えた訳だ…

↓川の側、西寄りに回り込むと、少しずつ明るくなる東寄りの空が背景になる…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early morning on OCT 28, 2015 (6)
↑こういう色合い…何か“寂寥感”のようなものを強く感じる…

↓この原爆ドームに近い橋が、原爆投下時の目標地点の目安にされたらしいが、そんな橋の側から原爆ドームを望んでみる…
A-Bomb Dome at Hiroshima in early morning on OCT 28, 2015 (9)

やがて、橋の辺りを少し歩き、やや遠ざかる原爆ドームを眺めながら…「早朝は、とりあえず珈琲を…」とコンビニで珈琲を求めて頂いた…

↓そしてこんな光景に出くわした…
An old tramcar with A-Bomb Dome at Hiroshima in early morning on OCT 28, 2015 (1)
↑原爆ドームを背景に、年季の入った路面電車…“広島”と聞くと想い起すようなイメージかもしれない…

1950年代に入った頃には、ここは「原爆ドーム」が通称になっていたようだが…平和公園の整備も進められ、1960年代に入って、被曝が原因の病に侵された少女が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺したことを切っ掛けに保存されることになったという原爆ドームである…人類の歴史というものは、或いは「戦争の連続」なのかもしれないが、原爆というのはそうした歴史の中でも「最も惨憺たる記憶」ということになるであろうか…そんなことを想いながらこれを見詰め、この日は例の気象台の建物を見学に行ったのだった…
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2015年11月16日

広島:赤煉瓦造の建物が渋い<郷土資料館>(2015.10.28)

広島での午前中は江波山に向かった。広島駅辺りから視て南西側になる江波山に対して、南東側には宇品地区、広島港が在り、そちら側にも路面電車の路線が延びている。<江波山気象館>を見学する等した後、路面電車を乗り継いで、宇品地区へ足を延ばしてみた…

宇品地区というのは、明治時代から港として軍民に利用された経過が在る地区で、広島の発展を支えていた側面が在る。殊に日清戦争の頃には、折良く山陽線が広島まで延伸された直後であって、他地域との間を鉄道で結ぶ他方で、宇品の港から戦地となった中国大陸との間を往来するということになり、広島に“大本営”も開かれて明治天皇が広島入りしたということまで在ったのだった…そうした経過から、広島に関しては“軍都”という呼ばれ方も在ったようである…

宇品地区に路面電車で至ってみれば、「少しだけ都心から離れた」という風情で、住宅街が広がる中にオフィスや商店等が散在しているような雰囲気だった…そういう中を歩き回り、ソースの芳香に惹かれて“お好み焼き”で腹ごしらえもしながら、<郷土資料館>という場所を目指してみた…

↓この日の青空の下に、赤煉瓦の建物がなかなかに映える!!
Hiroshima City Museum of History and Traditional Crafts on OCT 28, 2015 (1)
↑これが<郷土資料館>である…

↓古い建物を整備して利用している資料館であることが判る…
Hiroshima City Museum of History and Traditional Crafts on OCT 28, 2015 (3)
↑建物そのものは、1911(明治44)年に登場したモノが基礎になっている。ここは陸軍の“糧秣支廠”と呼ばれた施設だった…

“糧秣支廠”というのは、兵士の食料である“糧”と軍馬の餌である“秣”を調達・製造し、部隊に送り込むことがその役目という軍関係施設である。より詳しく言えば、この赤煉瓦の建物は缶詰工場として使われた建物の一部であるという。往時は近くのグランド辺りまでのもっと広い敷地が“糧秣支廠”となっていて、缶詰に加工していた食肉を処理する場所まで在ったという…この建物は原爆を乗り越えた建物であるというが、一部の鉄筋に、爆風の衝撃による傷みの痕跡が残っているという…戦渦が著しい広島に在っては、明治期から昭和初期の建築は、他地域と比べて殊更に貴重な存在という一面が在るのだと想像する。そうしたことで、この建物は<郷土資料館>として整備され、街の歴史を学ぶ場とされているのであろう…

↓明治末年頃の煉瓦の積み方を伝えるという壁である…
Hiroshima City Museum of History and Traditional Crafts on OCT 28, 2015 (10)

資料館としては、正しく「街の歴史を学ぶ」という趣で、市内の小学校の見学グループが丁度館内に居合わせた。説明員が港が整備された経過や、古い道具が在る場所で昭和30年代頃までの生活の様子等を説明していた。<江波山気象館>で見掛けた小学生は、何やら歓声を上げていたが、こちらで見掛けた小学生は真面目に説明員の御話しに耳を傾けている様子だった…

常設展示の中では…申し訳ないが「殊更に関心を湧き起こすモノ」は少な目であったが、驚いたのは、缶詰の缶の代用品として用いられたと伝えられる陶器製の容器であった…硝子ケースに収まって、写真撮影はし悪い代物だった…正しく「大きめな湯呑みのような容器に蓋が付く」という雰囲気の陶製容器で、湯呑みか何かのような部分に「缶詰の中身」に相当するモノを詰めて蓋をしたのであろう…「戦時中の話し」として、“金属供出”と言って、寺院の釣鐘や公園の銅像から、子ども達が学校等に持参する弁当箱に至るまで、方々の金属製品を集めたという話しを聞いた―“弁当箱”で航空機や軍用車輌が出来る筈もなく…古びた釣鐘を鋳潰して、何が出来るのか?!何か「凄く妙な話し」と感じる…―記憶が在る…更に、この資料館の前に立寄った<江波山気象館>で、1939(昭和14)年頃から鉄筋コンクリート建築は「金属資材の調達難」で廃れたようになってしまったことから、1934(昭和9)年竣工の気象台は、「戦前の鉄筋コンクリート建築としては“末期”なモノ」という解説に触れたばかりでも在った…そういうことは聞いているにせよ、「軍で用いる缶詰」に至るまで、「金属の利用制限」が在ったとは…率直に驚いてしまった…

↓開催中だった“企画展”が、なかなかに興味深かった…
Hiroshima City Museum of History and Traditional Crafts on OCT 28, 2015 (11)
↑これは広島市が市内の個人から寄贈を受けた資料を中心に展示したもので、士官として出征した日中戦争で戦死した方が残したものや、関連事項の紹介という展示で「戦禍や身近な人の戦死が身近だった時代」を語ろうとするような企画だった…多少の語弊を怖れずに言えば「少し洗練された、戦時の歴史の見せ方」のようにさえ思った…

“H氏”とされていた方…この展示の“主人公”ということになる方だが…広島で育ち、京都の同志社で学んでから広島に戻って活躍し、士官として出征して戦死したということだが…少年期の学校のことを挙げながら、当時の教育や学校のことを紹介し…彼が打ち込んでいて、広島でも競技普及に尽力していたというラグビー―彼が学んだ同志社と言えば…今でも関西の学生ラグビーのチームとしては「伝統を誇る名門チーム」として有名だ…―の様子など、現在も一定の人気を持っているスポーツが普及していたという時代を紹介し…様々な書簡等から、中国地方各地に展開していた軍の部隊のことや、入隊した人達の様子や周囲の人々の様子を紹介し…広島で同じ学校に学んでいた経過が在って、顔見知りであったという軍医に看取られて戦地で最期を迎えた経過や、軍の士官としての“H氏”が遺した制服や身近な装備品等が紹介されていた…「昭和20年頃まで」という、場合によっては「やや遠い」ものにも感じられる“時代”が「かなり身近に迫って来る」ような感じの展示だった…未だ暫くはこの企画展をやっているらしいので、近くにお住まいの方や、広島を訪ねて多少の時間が在る方にはお奨めしたい感だ…

↓好天に恵まれたこの日…敷地の樹木が凄く鮮やかに見えたことが、何となく記憶に残る…
Hiroshima City Museum of History and Traditional Crafts on OCT 28, 2015 (7)

今般は<江波山気象館>と合わせ、街の歴史を語る建物を利用した<郷土資料館>に立寄ることが叶った。非常に善かったと思う…
posted by Charlie at 18:44| Comment(0) | HDR/2015年10-11月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大阪:串カツを頂いた“新世界”(2015.10.31)

“帰国”のフライトの前夜、大阪の天王寺の宿に泊まった。夕刻のフライトまでの時間は、阪堺の路面電車の1日乗車券を手に、沿線でゆったり過ごそうと考えた…

阪堺の路面電車そのものは2010年12月に乗車した経過が在った。が、堺市内から天王寺駅前に至る部分を乗車したのみで、住吉から枝分かれして恵美須町に至る路線には乗車していない…そこで、天王寺駅前から住吉に出て、乗換えて恵美須町に向かってみた…

↓恵美須町の停留所に阪堺の路面電車が着いた…背後に通天閣の頂上部が僅かに覗く…
Tramcars at Ebisucho Stop on OCT 31, 2015 (2)
↑ここは“新世界”と命名された地区の一画を占める場所でもある…

この辺りは1903(明治36)年に開催された第5回内国勧業博覧会を契機に市街化が進んだのだという。博覧会後も鉄道の開通等で往来が盛んになり、元会場の東側が<天王寺公園>として整備され、西側が「大阪の新名所」という触込みで「新世界」と命名され1912(明治45)年に登場し、通天閣等が開業したのだという…

新世界は大阪の発展の中で浮き沈みが色々と在った。通天閣は戦時中に解体され、戦後に現在の姿で復活している。永く低迷した感であった地区だが、1990年代辺りから「古き良き昭和」なイメージが好意的に評価され、2000年代に入って色々な飲食店の進出も相次ぎ、現在ではなかなかに賑わっている。或いは、大阪以外の地域の人達にとって、「典型的な大阪の感じ?」と受け止められるのが、この新世界の周辺になるのかもしれない…

↓通天閣を望む商店街を歩いてみる…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (4)
↑辺りは、通天閣を中心にして放射状に街が拡がっているようなイメージも受けた…

↓歩道には高い屋根が掛かってアーケード街になっているが、屋根の下にこんなバナーが在った…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (3)
↑「愉しくて、温かい町」というキャッチフレーズが好い。そして、ほのぼのした感じのイラストが凄くキャッチフレーズに合っている…

↓残念ながら見受けられる、好ましくない行為を諌める掲示が在るのだが…「あかんで」というのを視て、何か近隣の方の話し口調を思い浮かべてしまった…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (14)

↓漫画『きん肉マン』に登場の超人“ロビンマスク”…「通天閣の警備員になったのか?」と笑ってしまった…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (7)
↑こういう奇抜なモノが置かれていても、それが妙に様になる、不思議な雰囲気の地区だ…

↓アーケードの商店街と逆側に行くと、華々しい看板が乱舞する飲食店街だ…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (9)
↑こんな「フグ料理の大きな看板と通天閣の画」というのが、他地域の人達にとっての「大阪!!」というイメージかもしれない…

↓場所によっては「派手過ぎ…」と批判されてしまいそうだが…こういう「真っ赤!!」が妙に似合うような気がする地区だ…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (11)

↓人気メニューの串カツを売る店が多く見受けられた。“○○店”という具合になっている場所が多かったが、恐らく大阪市内や近郊等で何店舗か営んでいる会社が運営しているのだろう…「朝食に遅過ぎ、昼食にやや早い」という時間帯で、未だ串カツの店も然程混み合っては居なかった…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (12)
↑画の右下にビリケン (Billiken)像が在る…方々に在ったが、これは通天閣の展望室に置かれているというモノのレプリカであろう…人気のキャラクターのようだ…

↓串カツを頂いてみた!!
'KUSHI-KATSU' at Osaka on OCT 31, 2015 (1)
↑確か…右から牛、豚、ししゃも、うずら、ささ身…だったと記憶するが、何れも好かった!!

串カツ店の店員さん…上記の串カツをお願いすると、材料を串に刺してあるモノを順次取り出し、手早く粉を付けて素早く揚げてくれる…そして揚げ物を揚げた時に使う小型のバットに載せてカウンターの席に出て来た。付け合せにキャベツも出る…

「ビールより、多少割安か?」と思って頼んだ日本酒を頂きながら、順次この串カツを頂く…比較的有名な「ソースの二度付けは禁止やで…」のマナーを守り、カウンター上のソースをたっぷりと1回付けてサクサクと頂いた。ソースは、市販の何かのソース単体ではなく「多分、何種類かの調味料を交ぜている?」と思えるような味だった。そしてそれが串カツに合う!

「やや早めのランチ」ということで、日本酒を冷で啜りながら熱い串カツということをしたが…何か「大阪の休日」という、好い気分で一時を過ごした…

↓「先へ進もう…」と、「やや名残惜しい」という気分で、新世界を後に…
'Shin-Sekai' area, Osaka on OCT 31, 2015 (1)
↑見上げた通天閣が「また、来てや…」と微笑みかけてくれたような気もした…

この“新世界”での写真は「大阪の想い出」という雰囲気で、何れも気に入っているのだが…「次の機会」が在れば、少し違う時間帯に訪れてみたいという気がする…更に…是非とも「次の機会」を設けてみたい感である…
posted by Charlie at 17:57| Comment(0) | HDR/2015年10-11月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

延岡:徐福の像(2015.10.26)

九州の東海岸を、概ね海岸線に沿って南北に延びる日豊本線を普通列車で移動しようとする場合、宮崎県と大分県の境界を越える延岡・佐伯間が、言わば“ボトルネック”である。普通列車は「1日3往復」で、朝の早めな時間帯の後は夕刻まで運行が無い…この区間は、宮崎県内各地と大分県内各地とを結ぶ特急列車が盛んに運行されていて、それを利用するのが一般的と見受けられる状況ではある…

そうした状況なので、「宮崎から小倉へ北上」という企図で動く場合、延岡から佐伯に向かう列車が発車する少し前に延岡入りするのでもない限り、延岡で些かの時間を過ごすこととなる。そこで今般、延岡での道草ということにしてみた。

天候に恵まれた中、宮崎を発って美々津に立寄ってから延岡に着いた。延岡では延岡城址を訪ね、近隣を少し歩いた。「ランチに遅く、ディナーに早い」という中途半端な時間帯に差し掛かってしまい、ゆったりと食事を愉しむという感じでもなかったが…延岡駅周辺を動き回り、結果的には移動の車中で飲む水をスーパーで求めるなどしていたが…然程賑やかでもない商店街を動き回っていた…

↓商店街の一画に不思議なモノを見付けた…
Nobeoka, Miyazaki pref. on OCT 26, 2015 (7)
↑「古代中国の貴人??」というような雰囲気だ…

これは延岡に伝わる言い伝えに因むものなのだという…

↓これを視て「古代中国の貴人??」と思ったのは、長崎の孔子廟で、孔子の弟子達であるという、こういうような衣装の人物像を視たからなのだが…これは徐福という人物だ…秦の始皇帝の時代の人物である…
Nobeoka, Miyazaki pref. on OCT 26, 2015 (6)
↑武将というようなタイプではなく、学者という感じの人物だ…

徐福は紀元前219年に、始皇帝が求める不老長寿の仙薬を求める旅に出て、海路で当方の蓬莱山に辿り着いたという…その“蓬莱山”が、延岡では市内の今山に比定されていて、徐福の一行が色々な知識を伝えたとされているのだそうだ…

徐福の“徐”は「スロー」で、“福”は「ハッピー」である。「ゆったりと幸せな人生を…」というイメージになるであろうか…そして徐福は「薬の神」、「健康・長寿の神」でもあるという。そこで延岡の商店街で、「健康で快適な暮らしのお手伝いをする商店街」を標榜し、そのシンボルとして徐福の像を設置したのだそうだ…

徐福に関しては、日本国内各地で様々な伝承も在るようだ…そんなものの一つに、思いも掛けずに触れる結果となった…

宮崎県内では、この延岡の徐福に加えて、美々津の神武天皇の伝承にも触れたが…何か宮崎県に関して、「伝説に彩られた日向の地」というイメージを抱くようになった…
posted by Charlie at 06:48| Comment(0) | HDR/2015年10-11月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする