2015年01月26日

<Robert's Coffee 福岡大名>(2014.12.21)

「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”を」という話しを聞いていた。場所が福岡…「何となく気になる」という按配だった…

“東廻り”で九州を殆ど一周するような型で福岡に至り、福岡の代表的な繁華街である天神地区で友人と会って愉しい一時を過ごした訳だが…その際に「天神地区の大名町という住所に…」とこの「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」という一件を話題にした。

実は友人と会う前に天神地区に至り、この「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」という場所を探そうとしたが…既に暗く、雨も降っていて歩き回り悪かったので、探せなかった…

友人は、実は天神地区在勤で辺りの様子に明るい。住所を確かめて…一緒に歩いて「この辺りの筈…」と場所を探し当てた…

↓1本入った通に在る建物の2階に入居していた!

↑写真では切れているが、画面右側に「77.7」と大きな数字が見えた。地元のコミュニティーFMの隣だった…

↓“フィンランド”と言えば…「ムーミン!」ということで、通に面した階段の上り口にムーミンの看板が在って迎えてくれる…


同行した友人と「ここで珈琲を頂くという展開は…想定していなかった…」と笑いながら、ムーミンに迎えられて店内に…

↓創業者であるロバート・パウリグのサインをロゴ化した図案のカップで珈琲が出て来る…


店内は…“欧州的デザイン”と言うのか、落ち着いた感じで、立寄った時は何かの集まりの帰りのように見受けられるグループが珈琲を愉しんでいる様子や、1人で、数人でという他の人達の出入りも在った。「日曜日の夜」という状況下、物凄く混んでいた訳でもなく、ゆったりと出来た…

↓創業者であるロバート・パウリグはヘルシンキ市長を務めた経過が在ることから、“メイヤーズブレンド”(市長のブレンド)と銘打って、店内用カップにも見受けられたサインをパッケージに入れた珈琲も店内で販売していた…

↑写真そのものは、翌日に旭川の宿で撮ったが…

可能であれば“豆”が欲しかったが、コーヒーメーカーで使う等の使途で挽いてあるモノのみの販売だった…

つまらないことだが…粉状の珈琲を保管するのに適当な容器が拙宅に見当たらなかった…暫く袋の封を切らずに保管し、先日容器を入手したので、その容器に入れて珈琲を保管することにし、拙宅でドリップしてみた。「欧州の流儀」とでも言うのか、確り濃い感じもする他方で、彼の地の人達のように「1日に何杯も…」ということをしても大丈夫そうな、存外にアッサリした感じのバランスが好ましいと思った。このところは…拙宅の珈琲は、この“メイヤーズブレンド”だ…

「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」というのを聞いたのは何時だったか?とにかく気になっていたので、実際に立寄ることが叶って善かった…

それにしても…「遠くフィンランドで焙煎されて挽かれた珈琲が福岡にやって来て、福岡で求めて稚内へ持ち帰って淹れている」という状況…一寸面白い…
posted by Charlie at 07:48| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月19日

長崎駅:キハ66(2014.12.21)

国鉄時代の車輛…既に“JR時代”に入って四半世紀が過ぎている中、JR各社に引き継がれた各車両も多くが新型に転換されており、「一寸、少数派?」という感である…

九州に関しては、「国鉄時代の車輛」を見掛けると「おっ?!」という具合に、少し注目してしまう。九州へ行けば、現在では1990年代以降に登場の“水戸岡デザイン”の車輛が方々のJR線で“主力化”していると見受けられるからだ。

↓2012年以来、3回長崎に立寄り、3回共に見掛けている車輛である。何か「長崎で出会う…」、「長崎と言えば、この車輛…」というイメージを勝手に持っている…

↑「国鉄時代の車輛の形状!」という感じだ。が、各地の国鉄時代の車輛が各々の塗色で活躍中なのと同様、これも近年のJR九州の非電化区間で定番化しているキハ200で見受けられる青系の塗装が施されている…

この車輛…キハ66系というディーゼルカーだ。1974年に登場した車輛である。1975年から山陽新幹線が博多まで延伸されることに先駆け、北九州での輸送力、サービス向上を目指して導入された車輛である。「両開き2扉車体に転換クロスシートと冷房装置を装備」という車輛で、普通列車に用いられる車輛でありながら、急行列車用とされていたディーゼルカーに遜色の無い内容を誇る車輛だった…(実際、この車輛が急行列車に用いられた事例も在るそうだ…)

このキハ66系は2輛ユニットで動くものだが、自重が重めで使用し難い線区も在ったことや、国鉄の財政事情も在って、1975年までに15編成(1編成が2輛なので計30輛)製造されただけである…

JR化後にはJR九州が全車を継承した。一貫して筑豊本線を中心とした北九州地区の非電化路線で運用されていたが、北九州でキハ200を投入したことや、2001年に筑豊本線の電化が完成したこと等を受け、全車が長崎に移った。2013年以降は全車が「長崎鉄道事業部佐世保運輸センター」の所属で、が佐世保線、大村線、長崎本線の快速や普通列車として用いられている。なるほど、「長崎で出会う…」というイメージを抱くようにもなる訳だ…

キハ66系…これの少し後に登場する“40系ファミリー”のディーゼルカーや、内装に関しては115系電車にも影響を与えたという、或る意味「時代を画した車輛」という一面も在る…

現在は長崎や佐世保等で街と街とを結んで活躍中のこの車輛…実は…「何度も見掛けているのに乗車機会を設け損なっている」車輛の一つだ…

↓こういう具合に、キハ66が並んでいる姿も長崎駅では時々視掛ける…

↑「並んで停車中の車輌の正面」という画…これは“行止り式”になっている「長崎駅ならでは!」という画のように思う…

異なる形式とは言え、車輛正面の外観は“40系ファミリー”に似ているこのキハ66…こういう「濃い蒼」という色合いも似合う…

これは、長崎県内の快速が<シーサイドライナー>(「海辺を駆ける」という意味であろう…)という愛称で、キハ200に関しては蒼い塗装なので、それに合わせたということであろう。

↓実は2013年に佐世保へ向かった際、この「蒼いキハ200」には乗車したことが在った…

↑2013年12月に佐世保駅で撮影したモノ…キハ66は、これに「合わせる」ような塗装になっている…

↓序でに…これも2013年12月に佐世保で視掛けたキハ220…

2014年12月に臼杵・佐伯・延岡で乗車したキハ220と同型だが、あちらは赤で、こちらは蒼…イメージが随分と変わる…

何か、訪ねる先々で「今度はこれに乗車してみたい…」というのを次々と見付けて、見付けては「行きたい!!」と強引に機会を設けてしまう感じだ…
posted by Charlie at 19:51| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月18日

西都城駅&鹿児島中央駅:817系電車(2014.12.17)

宮崎駅の直ぐ傍の宿に泊まった翌朝…“始発列車”で行動を開始した…

宮崎・都城・えびの、えびの飯野・都城、都城・西都城と列車で動いたが…どういう訳か何れの区間でも“40系ファミリー”のディーゼルカーだった…

西都城駅で、鹿児島中央駅を目指そうと列車に乗ったが…

↓817系電車が現れた…

↑「漸く出逢った…」というように感じた…

この817系電車…基本的に2輌運行のようだ…宮崎県、鹿児島県、長崎県、佐賀県で視掛けることが多い…“3000番台”という新しいモノは仕様が少し違い、3輌のユニットになっていて、福岡県方面で時々視掛ける…

宮崎県、鹿児島県、長崎県、佐賀県で視掛ける2輌運行の817系電車…基本的に「運転士のみが乗務」という“ワンマン”体制で走っていることが殆どだ…

この数年の数回に及ぶ九州訪問を通じて、この817系電車には随分と乗車した。「九州を列車で旅する」とでも聞けば、この817系電車の、正面が黒い外見と、黒い革張り風クッションを付けた木のベンチ風な椅子の内装、地元の老若男女が乗っている車内、街や田園や山並み、或いは柑橘が実る木が見える車窓を想い起こす。私の中では、817系電車は「(勝手な想いながら)九州の現行の鉄道の象徴」のようにさえ思える存在だ…

西都城を出ると、列車は山間のような場所をゆっくりと進む…隼人駅で、都城駅で視掛けた<ななつ星in九州>が停車中なのを車窓に視た…(後で調べると、<ななつ星in九州>は通常は宮崎駅や南宮崎駅に停車するようで、都城駅停車は期間限定だったようだ…或る意味「貴重な様子」を視たことになる…)列車が国分駅に至ると…車内は急激に乗客で賑わい始めるので多少驚く…国分から鹿児島中央は「大都市・鹿児島の近郊」という具合なのだろう…

↓列車は鹿児島中央駅に着いた…


↓電化されている区間の普通列車に関しては、この817系電車が主力化しているように見受けられる…

↑こうやって複数の817系電車が居合わせる場面も、鹿児島中央駅ではよく視掛ける感じだ…

この日…「えびのの雪」で驚いたが…都城や鹿児島でも、天候が好かった他方で風が冷たかった…更に…鹿児島中央駅に至る手前で、山頂部が雲で隠れていたが、桜島が見え「冠雪?」という様子だった。それが気になって、翌日は桜島を眺めに出て「素晴らしい!!」ということになったのだった…

この宮崎から鹿児島に動いていた日から1ヶ月を経てしまったが…817系電車が妙に懐かしい…
posted by Charlie at 10:17| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月17日

福岡土産:博多織のネクタイ(黒田官兵衛・長政親子の兜の柄)(2014.12.22)

博多駅周辺から福岡空港を目指す場合…地下鉄に乗ってしまえば直ぐに着く…博多駅周辺で、色々なモノが在る駅の構内に入り込んで、地下鉄の乗場に至るまでの方が、余程時間やエネルギーを使うと思える程だ…

「直ぐに着く」空港なので、張り切って余り早く出掛けても搭乗までの時間を持て余してしまうが…空港ビル内で土産売場を眺めるというようなことをするのも愉しい…早朝や夜間というのではなく、土産売場の店舗が普通に営業しているような時間帯なので、一寸覗いてみようと思っていた…

↓土産売場で眼に留めて入手したのはこれだ!!

↑写真そのものは、福岡空港から新千歳空港に飛び、列車を乗り継いで至った旭川の宿で撮ったものだが…

土産売場の一隅に、福岡の伝統工芸を活かしたグッズを扱っている店が在ったのだが、そこに「博多織ネクタイ」というものが在った。

色々な種類のネクタイが在った中、「一寸視てくれ!!」とばかりに私の眼線を奪ったのが写真のモノだった…

一見すると「やや華やか目に見える、抽象的な図案を組み合わせたモノ」のようだが…赤一色に見えるのは黒田官兵衛の兜で、黄色の大きな角状の飾りが目立つモノと、板状のモノを折り曲げて造型したようなグレーのモノは黒田長政の兜だと思った…

「城下町・福岡」の礎を築いたとされる両武将の兜…大河ドラマ関係で彼らが話題になっている、或いは観光振興の素材としていることから登場した柄であろうが…「当地らしさ」が溢れていて気に入った。また、戦国時代末期辺りの武将達が自分達の武威を誇示しようと工夫した華々しい兜のデザインはなかなかに面白いモノが多い…それをネクタイのような日用品に入れるというアイディアが好い。

店員さんに価格を尋ねれば「予算の範囲」と言える額…求めようと決めたが、その時に「これ…黒田官兵衛・長政父子の兜をデザインした柄ですよね?」と尋ねてみた。店員さんの顔に“驚き”が浮かんだ。「判って頂ける方…いらっしゃらないんです…」という返答…恐らく「これは何ですか?」と尋ねられて「大河ドラマで話題の、福岡に縁が在る黒田官兵衛と息子の黒田長政が愛用したとされる兜の図案を入れて…」と説明するのが、店員さんの“何時ものパターン”であったのであろう。私の問いは、それを破ったのだと思う。

地元の伝統工芸を活かしたグッズで、地元に縁が深い題材の図案という「当地らしさ」と「サムライのデザイン」の面白さという絶妙な組み合わせ!!素晴らしい土産を入手出来たと大満足だ…他方…北の果ての拙宅に持ち帰ったこのネクタイ…未だ“出陣”していない…
posted by Charlie at 19:05| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月16日

臼杵の街(2014.12.16)

中津・杵築、杵築・大分、大分・臼杵と列車を乗り継いだが、乗車した車輛は何れも815系電車で、何れも2輛運行の列車だった。

↓臼杵駅の時刻表…大分辺りとの往来が日常的に盛んであると見え、特急列車も多いが「真っ赤な文字の区間」というようにはなっていない…

↑ただ…南下する普通列車は何れも“佐伯行”だ…あの「佐伯・延岡」の「普通列車=1日3往復のみ」を想い起こす…

大分県の日豊本線沿線だけに限っても、「幾ら時間が在っても足りない」と思われる程度に、色々な興味深そうな場所が在るように見受けられた。そうした中、「どの道、列車を乗換えるために下車することに…」という事由も在り、臼杵の街に出てみようと思い立った。

↓臼杵駅前に出てみれば…大きな石仏が据えられていて、一寸驚いた…

↑駅前の石仏はレプリカである…

臼杵辺りには「臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)」というモノが在って、よく知られているという。寧ろ「臼杵石仏」と通称されているようだが…

“磨崖仏”(まがいぶつ)というのは、「自然の岸壁や岩に彫り込まれた仏像」のことだ。仏師が工房で造る仏像は、安置したい場所に運ぶことが出来るが、“磨崖仏”は「動かせない」ということになる…

臼杵磨崖仏に関しては、どういう経過で造られたのか、仔細は判らないらしいが、仏像の様式により、平安時代後期から鎌倉時代初め頃のモノではないかと考えられているらしい。所謂“修験道”に通じて行くことになるのであろうが、仏教の中で、「山岳での修行」を重視するような考え方が在って、そうした中から山中に磨崖仏を設けるようなことも行われたのかもしれない…

駅前に在るレプリカの磨崖仏は大日如来であるが、臼杵の山中には多数の磨崖仏が伝わっているそうだ…現地へ向かうのなら…本数がやや少ない感じもするバスを利用するか、レンタル自転車ということになりそうだが…

レプリカの大日如来が据えられた駅前から街に向かって歩いてみる…

臼杵は城下町だったというが…

↓臼杵城の城址が在る…

↑少し険しい岩山のような感じの場所に城が築かれているように見える…街中の平坦な場所に、岩山が不意に突き出たようだ…

臼杵城…最初は“丹生島城”と呼ばれたそうだが、かの大友宗麟が築いたのだという。

大友家の本拠地であったのは、現在の大分市に相当する豊後府内で、そこに城館が在った。戦国期には本拠地の他に幾つか城等を構えていた。“丹生島城”もその一つであったが、1576(天正4)年に大友宗麟が家督を息子の大友義統に譲ることにし、“二元政治”的なことを始めたのだったが、その際に“丹生島城”に移っている。

城址を視て、「少し険しい岩山のような感じの場所」と思ったのだが、ここは「干潟に突き出た島」だったという…“島”であったのであれば、「少し険しい岩山のような感じの場所」と見えたのも納得出来るというものである。周囲が海で、海を堀にしたような、簡単には攻め寄せられない城だったことになる…実際、最晩年の大友宗麟が、この城で島津勢を迎え撃って寄せ付けなかったということも在ったそうだ…

かの大友宗麟がこの城を主な居城とした後、大友家は「耳川の戦い」で島津家に敗れ、以降衰退して行く…豊臣政権下で大友家は改易となってしまい、関ヶ原合戦当時に臼杵城を本拠地としていた太田一吉も、石田三成との交誼から西軍方となっていたので改易された。そこに、稲葉貞通が5万石で臼杵に封じられた。以降、この稲葉家が明治維新までこの地を知行することになる。因みに…江戸時代に“稲葉家”と言えば、老中を輩出した譜代大名が知られるが、臼杵の稲葉家は別な系統で、外様大名だった。

干潟に突き出た島だった臼杵の城であるが、1887(明治20)年に周囲が埋め立てられたそうだ…故に、平坦な場所に城になっていた岩山が突き出ているように見えるのだ…

↓城址は、現在は公園である…


↓城から然程遠くない辺りには、城下町の面影を色濃く伝える地域も在る…

↑なかなかに趣が在る…

↓写真がやや撮り悪かったが…三重塔を擁する旧い寺も見受けられた…


この城下町の面影を色濃く伝える地域…金融機関の支店のようなものが入居した建物も、外見を「和風から突出しない」ように工夫するなど、「街並みを大切にしている」様子が伺えた。

↓街の一画に「歴史の町 臼杵」という看板も在った…


臼杵は、四国との間のフェリーが発着している港を擁する街でもある。今般はその港まで足を延ばす時間は設けられなかったが…

街を歩いた際の起点にした臼杵の駅に戻ってみれば、佐伯行の列車が待機中だったので、とりあえず飛び乗って「日豊本線の南下」を継続した。臼杵も、また何時か寄ってみたい感じの場所だった…
posted by Charlie at 18:04| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月15日

杵築の街(2014.12.16)

2013年12月に九州を訪ねた折には、福岡空港到着後に博多駅に出て、<かもめ>に乗車して長崎へ向かった。“西回り”である…

そういうことを記憶していたので、2014年12月に九州を訪ねた折には、福岡空港到着後に博多駅に出て、小倉方面への普通列車で動き始めた。“東回り”である…

“東回り”で何となく動き始めて、「<青春18きっぷ>を手に、普通列車で日豊本線を南下」ということを思い立ち、12月16日は早朝の小倉駅から出発した。

小倉から中津で道草して辿り着いたのは杵築だ…

↓杵築駅も、何か昔風な駅舎である。大分・博多間の特急列車と、普通列車が停車している。列車が着く都度に、存外な人の出入りも見受けられる…

↑九州方面では、12月半ば辺りから門松を飾るものなのだろうか?この駅でも門松を見掛けたが、他にも何箇所かで出くわした。門松…北海道内でも見掛けるモノと、微妙にデザインが異なるような気もした…

“杵築”と書いて「きつき」と読む。古くは“木付”と書いたそうだ…同じく「きつき」と読む。

辺りは豊後の大名だった大友家の縁者でもあった木付家が領していた。大友義統が1593(文禄2)年に豊臣秀吉によって改易されてしまうと、木付家も辺りの知行地を失ってしまった…

関ヶ原合戦後、豊後は細川家の知行地となるが、細川家が肥後に移った後の1632(寛永9)年、豊後には小笠原忠真が封じられて小倉上に入り、その弟の小笠原忠知が4万石の大名に取り立てられて“木付”に入る。

1645(正保2)年に小笠原忠知が三河に移り、豊後高田から松平英親が3万2千石の大名として“木付”に入る。以降、この松平家が明治維新までこの地を知行地としていた。

江戸時代の大名は、“代替わり”をする際に、代々受け継いでいる知行地の権利を認める旨を記した“朱印状”という文書を幕府から受けることになっていた。1712(正徳2)年に松平家が朱印状を受けた際、朱印状に「杵築」と記された。“木付”としていた以上、“杵築”は誤りである。そこで「如何致しましょうや?」という話しになり…「以降は“杵築”と致すが好い」ということになった。爾来、この地の地名は“杵築”とした訳だ…

「誤記が転じて、その字を使うことにしてしまった」という、一寸面白い挿話を思い出しながら、杵築駅前から歩き始めた。杵築に着いた辺りで、俄かに晴れた空が拡がり始め、心地好い感じでもあったのだ…

駅周辺には杵築の城下町方面への道筋が判るような標識類は見当たらなかったが、何となく駅前の案内図を視て進み始めた。何となく眼が合った近所のおじさんに「城下町…こちらの方角ですよね?」と問えば…「そうや…真っ直ぐや…」とおじさんは言う…「ありがとうございます」とまた進み始めると…「かなりあるで!!」とおじさんの声が背中側から聞こえた…

大分県辺りの方…私の耳には「若干“関西”風」と聞こえる抑揚と言葉の使い方で話しをされるようだ…おじさんの口調を思い出しながら「真っ直ぐや…」の道筋を進んだ。20分やそこらであれば、別段に苦にせずに歩いてしまおうと思っていたが…20分近く歩いた辺りで「杵築市街 3q」という標識を見付けて驚いた。「夜まで日豊本線を南下して」という思惑の中、この距離を歩き切るというのでは、時間が無い…するとバス停が在った…数分待つと、市街側へ向かうバスが現れることが判った…

↓バスで市街に至った。そして杵築城址を目指し、城址に至った…


↓城址辺りは公園になっていて、なかなか美しい…紅葉した木も在った…


城址辺りに至ると…「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という、些か妙に思える天候状態が断続するようになった…上着にフードが在ったことを思い出し、それを引っ張り出して頭に被るなどしてやり過ごした…

杵築の城下町は少し独特だ。城の傍に丘陵状の地形が並んでいる。2つの丘陵の上の側が武家屋敷で、谷に相当する辺りに商家等が集まるという具合に城下町が築かれている。“サンドイッチ状”とでも言うような構造だ…

↓時々「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という状態に付き合いながら、「坂の町」を歩き回ってみた…


↓坂の上に相当する部分に、「如何にも…」という具合の武家屋敷が見受けられた…


↓衣装に身を包んだ俳優が一寸動き回れば…そのまま時代モノの映画やドラマの一場面が出来上がりという感じの箇所が多く見受けられる…


↓眼前に下り坂で、下り切った辺りから上り坂が見える。“サンドイッチ状”に街が開けている様子が判る…


↓商家等が在ったエリアには「伊能忠敬の足跡」を伝える石柱が在る建物も見受けられた…


杵築の市街から駅まではタクシーで戻った。タクシーの運転手さんによれば、市街・駅の距離は5q程度ということだった…

今般は、「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という状態に多少の苦戦も強いられたが、なかなかに個性的な街並みが記憶に残る杵築である。
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「12月の旅」の画で創った最初のフォトブック―“赤本”&“青本”

12月30日に札幌で思い立って発注したのだが…「12月の旅」の画で創るフォトブックが出来上がった!!

↓こういう具合になった…


“赤本”…右側は<はやとの風>と<しんぺい>をテーマにしたモノだ。「そこに鉄道が敷かれている」という事実自体を“産業遺産”、“文化遺産”として扱い、独特な改装を施した「旧くて新しい感じ」な車輌を運行し、熱心に説明をしてくれる客室乗務員が乗っている…「軌道上を行く定期観光バス」な趣で、各駅でも少し停まって様子が視られる…何か「一寸した“時間旅行”」という感さえする…そんな様子を纏めた…

“青本”…左側は鹿児島がテーマだ。何と言っても「桜島の眺め」を多いに愉しんだのだったが、その満喫した眺めの他、仙巌園の様子や、「お気に入り!」である路面電車の様子の画を収録してある…

こういうような「テーマを少し絞ったフォトブック」はこれまでに作ってみたことは無かった…こういうのも好い感じだ!!画はパソコンの画面で散々視ているが、こうした“印刷物”にしてみると、また違った趣なのが好い…
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2015年01月14日

下関:みもすそ川公園に在る「長州の大砲」(レプリカ)(2014.12.15)

↓「海の底の県境」を歩いて越え、下関に上陸を果たした…
>>関門人道(2014.12.15)

下関側の出口の辺りで、地元の方と言葉を交わし、関門人道の下関側出入口辺りにバス停が在って、バスが発着する他に客待ちのタクシーが時々見受けられるということを知った。

門司側に歩いて引き返して、門司側の関門人道出入口から門司港駅まで歩くのは、やや遠い。またタクシーは通りそうもないような雰囲気の場所だ…小倉駅近くの宿へ引揚げるとすれば…下関駅へ向かって列車に乗るのが手っ取り早そうだ…

そう思いながら関門人道の出口を出ると…丁度乗客が乗降中のバスが停まっていた。バス停だ。バスに駆け寄った。「下関駅に行きますか?」と運転士さんに尋ねると…「反対の車線ですよ…」ということなので、「ありがとうございます」とバスから離れて見送り、道路を渡った。

停留所はアッサリ見付かった。“御裳川”という名前…「みもすそがわ」と読むようだ。路線の案内が掲出されていて、それによると以前に立寄った覚えが在る赤間神宮や唐戸辺りを通って、下関駅へ向かう路線が在るようだった。時刻表を視ると…十数分の待ち時間が在った。一息入れながら、辺りの様子を眺めていれば直ぐだ…

↓そして辺りを伺い、一寸ビックリである…正直…「うわっ!」と驚きの声が漏れた…

↑関門海峡を睨む大砲が並んでいる…江戸時代風な大砲だ…

下関…“長州”である…幕末期…「攘夷の決行」を叫び、下関近辺で外国船に砲撃を加えて、その後に四国連合艦隊による報復攻撃を受けて砲台を潰されたという出来事が在った筈だが…そんな史実を思い出した。

気になったので調べてみると…この御裳川辺りは、幕末期に砲台が設置されていた場所に相当するそうだ。それに因み、長州が用いた大砲のレプリカを5門並べたのだという…

下関は、日本海、瀬戸内海、九州東海岸と「海域が交差する」場所である。現在でも、関門橋の高い橋桁の下を「存外に大きい?!」と注目したくなる船舶が航行しているが…この辺りに砲台が据えられたような時代にも、大小様々な船が賑々しく行き交っていたのだと想像する…

江戸時代の250年間余りというのは、「国内の流通網が、現代の人達が想像する以上に発展した」という側面を持つ時期でもある。考えてみると…宗谷の昆布が日本海を縦断し、この下関から瀬戸内海に入って、関西方面で消費されていたというようなことさえ在ったのだから…

商業や流通の充分な発達を踏まえ、長州辺りは重商主義的な経済運営を図っていたと見受けられる地域だ。そういう現実的な目線と、やや激越な“攘夷論”とが交差して、下関に砲台を築くということになったのであろう…(実は“攘夷”と一口に言っても、「外国船や外国人を追い払え」というような発想ばかりではなく、「不利な通商条約の改善を目指す」というような考え方についても、往時は“攘夷”という表現をしたらしいが…)

↓既に暗い、やや遅めになって来た時間帯にこんな大砲を視ると…何か辺りの時間が逆流して、幕末期の場面―「攘夷決行!!」と気勢を挙げる武士達…そこに襲い掛かる外国艦隊の砲撃…小舟で現れる上陸部隊…というような様子…―でも現れそうな気がしないでもない…

↑現在では…砲台のような物騒なモノとは縁が薄い、橋やトンネルで本州・九州間を移動する他、多くの船も行き交っている海域が大砲の向こうに拡がっている…

大砲を眺めながら、バスを待っていて気付いたが…この辺りで見える関門橋は、午後9時になると橋を照らしていたライトを消灯してしまうようだ…橋が消灯になった頃、下関駅へ向かうバスが登場し、それに乗って下関駅へ向かったのだった…

↓下関駅到着時の画だが、これが御裳川から乗車したバスだ…

↑他地域でバスに乗車すると時々思う。稚内や札幌、または旭川で視掛けるようなバスと同じようなモノが在る他方、「少し小ぶりな車輌?」というのも存外な頻度で視掛ける。この下関のバスは、「少し小ぶり?」という感じだった。乗客も多く、車内が暗く揺れていたので写真は撮らなかったが、シートの布地は「“ふく”のイラストが入った可愛らしいモノ」であった…

何気なく「歩ける?行くぞ!!討ち込め!!!」と元気よく歩いた“関門人道”だったが、この「長州の大砲」と偶々出くわしたのは面白かった…
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2015年01月13日

鹿児島:仙巌園(せんがんえん)と桜島の眺望(2014.12.18)

前々日、前日と“始発”やそれに近い時間帯の列車に乗るということから1日の活動を始めていて、「多少ゆったり…」と考えていた朝だった…

前日に鹿児島へ到着した際、桜島は山頂部が雲で見え難い状態であった他方、「冠雪?」と思わせる様子も覗いていた。それが気になっていたので、何となく城山へ出掛けてみた…

↓そこで「12月としてはやや珍しい…」という、桜島が冠雪していた様を視た…
>>鹿児島:城山から冠雪した桜島を望む(2014.12.18)

これに心動かされ、この日は鹿児島で「桜島の眺望を愛でる」ということに半ば終始してしまうことになった…

城山の後…向かった先は“仙巌園”(せんがんえん)であった…

仙巌園というのは、歴代の島津侯が別邸として用いていた場所である。“磯庭園”とも呼ばれているようだが、浜辺に在って、眼前の錦江湾を池に、桜島を築山に見立てた、大胆な借景をした美しい庭園が在り、これが素晴らしい!初めて鹿児島に寄った2011年にここを訪れていたが、なかなか「記憶に残る」場所である。

1658(万治元)年に島津光久が造園したのが仙巌園の起こりで、以降の歴代の島津侯が手を入れている。幕末期には、かの島津斉彬侯がこの辺りで“集成館”と称して製鉄所、ガラス工場、紡績工場等を起こしたことも知られている。因みにこの“集成館”と称して建てられた建物の1棟が残っていて、島津家所蔵の史料等を展示している資料館(「尚古集成館」)になっている。今般はそちらも後から見学したが…

仙巌園に関しては、1888(明治21)年から島津公爵家が邸宅として用いていたが、島津忠義公爵が他界した後、公爵一家は東京に移住して住民は居なくなった。1949(昭和24)年に華族制度が廃止され、仙巌園は鹿児島市で管理していた。1957(昭和32)年に島津家に返還され、現在は島津興業が管理している。

↓仙巌園の入口では、別途紹介したが、厳しい甲冑が来場者を迎えてくれる…
>>鹿児島・仙巌園:島津義弘公着用甲冑(複製)(2014.12.18)

↓瓦の一部に家紋を施したモノ―如何にも「大名に縁の…」という感―で葺かれている屋根を備えた立派な門が在る…


↓こちらは錫を瓦状に細工したモノで屋根を葺いている…


「ほんの触り」だけでも、なかなかの勢威を誇った有力大名に関連する邸宅という雰囲気が滲む…

↓歴代の島津侯が滞在した筈の御殿…


↓海側を視れば、直ぐに冠雪した桜島の姿が眼に飛び込む…


↓陸側には小高くなっている箇所が多く、庭園や建築群の向こうに、海と桜島との眺望が開ける…


↓建築群の屋根と、相当に古そうな、大きな松の木の向こうに海と桜島…この場所「らしい」感じがした…


↓桜島の眺望が開けない箇所も、なかなかに趣深い…


↓12月の半ばを過ぎて、こんなに綺麗な紅葉が見られる場所も…


↓銀杏の落葉も好かった…


↓“望遠”で桜島の冠雪している部分に迫ってみた…


とにかくも、この日はこんな仙巌園で美しい眺望を愉しみ、大満足だった!!
posted by Charlie at 19:44| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月11日

鹿児島の路面電車:いづろ通停留所の612(2014.12.18)

ドルフィンポートの辺りで、西日を受けていた桜島を眺め、路面電車のいづろ通停留所辺りを目指して歩く…

↓こんな光景が眼に飛び込んで来る…


日没前の時間帯…黄金色に輝く空を背景に、少しずつ街に灯が入って来るのだが、そんな時間帯の雰囲気は艶かしく麗しい…

何か、街の一角が「黄色みの強いセピア色」に染まるかのようだ…そういう色合いに、600型のレトロなデザインが妙に似合う…この型の電車…1959年に初登場したモノ…“612”は1960年製造だそうだ…既に半世紀以上に亘って、この街を走っている…

こういう風景が…凄く好い!!
posted by Charlie at 22:00| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月10日

長崎:<観光丸>(2014.12.20)

「長崎に泊まった」というのは…計3回経験しているが…偶々3回共に同じ宿だった…2回目と3回目に関しては、1回目が悪くなかったことから、「あそこはどうか?」と見れば空きが在ったので利用を決めたということになるが…

宿は路面電車の大波止停留所に近い。直ぐ傍が各種の客船も発着している場所で、海岸の景色が好ましい場所だ。近くにコンビニが在る等、利便性も好く、長崎駅に至近でもないものの「徒歩可能」な距離でもある…

この宿に落ち着いて一息入れた後、「近くの“長崎県美術館”の屋上からの眺望が好いらしい」という話しを思い出し、陽が傾いた中で散策に出た…

↓“長崎県美術館”への道すがら、こんなものを眼に留めた…


帆船?見てのとおり、帆を張る柱が聳え立つ船であるが…“外輪”らしきモノが舷側に…こういう“外輪”が在るような、「蒸気機関を備えた帆船」と言えば…「幕末期辺りの船」である…

この船…<観光丸>である…これは「観光向けの船だから」ということで名付けられたのではない!!本当に「国の光を観る」という古い言葉から取って幕末期に名付けられた名である…(因みに今日用いられる“観光”という語の語源は「国の光を観る」だというが…)

1850年にオランダで建造に着手された船が1853年に完成し、2年後にオランダ国王のウィレム3世が幕府の13代将軍の徳川家定に贈られた。幕府では1856年に船を<観光丸>と命名した。船は主に長崎に開かれた“海軍伝習所”で練習艦として使われていた。

“海軍伝習所”の閉鎖後、<観光丸>は佐賀鍋島家に委託され、佐賀の“三重津海軍所”で運用されていた。1868(明治元)年に政府所管となって、1876年に除籍解体となった…

オランダ生まれで、幕末期に活躍した多くの人達との縁も在る<観光丸>…1987年になって復元船が登場した。長崎港で視たのは、その復元船である…船はハウステンボスを運営する会社の所有だが、現在は長崎港で港内クルーズに用いられていることが多いようだ…この時は、運航と関係のない日の夕方という感じで、辺りはひっそりしていたが…

この<観光丸>…全長65.8m、全幅14.5m、喫水4.2mで総トン数353tとのことだ。高いマストは32m在るそうだ…

↓黄昏の長崎に幕末期の姿を伝える船…何か凄く好い!!


つい先日読了した小説に登場の、旧幕府海軍関係者も、<観光丸>で航海術や船のメカニズムを学んだ訳だ…この<観光丸>は、幕末モノのテレビドラマ等にも“出演”した経過が在るようだ…

“次”が何時になるのか、それ以前にその有無さえ判然としないが…乗ってみたい!!
posted by Charlie at 19:29| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月14日から12月23日に使った切符

↓旅から戻ると、「使った切符」を纏めて、写真に撮っておきたくなる…
↑大概は…旅から戻った後に何となく寄る近所の喫茶店のテーブルで撮るが…

<青春18きっぷ>のようなものは、何らの面倒もなく、そのまま持って帰ることが出来るが…その限りでもないモノは、駅で駅員さんに「記念に持ち帰りたい…」と申し出て、“無効”とか“乗車記念”というようなスタンプを押してもらって持ち帰る…

今般は…札幌駅で<青春18きっぷ>を求めた…それを手に列車で新千歳空港に向かい、空路で福岡に飛んで、福岡空港から博多まで地下鉄で出た後、早速に博多・小倉、小倉・門司港、下関・小倉と使用した…

2日目は…小倉・中津、中津・杵築、杵築・大分、大分・臼杵、臼杵・佐伯、佐伯・延岡・宮崎と使用…

3日目は…宮崎・都城・えびの、えびの飯野・都城、都城・西都城、西都城・鹿児島中央と使用…

以降は福岡空港から新千歳空港に戻ってからの使用…新千歳空港・札幌・岩見沢・旭川で使用…

最終日の5日目は旭川・稚内で使用した…

何か“中抜け”な感じだが…北海道内と九州とで、存分に使用した感じである…<青春18きっぷ>で着いた駅で改札を出る際、駅員さんが居る駅では“下車印”をお願いする。辿り着いた駅名が残って記念になる…今般は、日豊本線沿線の駅名が見える他方に、北海道内の何となく馴染んだ駅名が見えるのが面白い…

鹿児島から佐賀、長崎、福岡に関してはJR九州の“ネットきっぷ”を使用した。精確には“ネット予約”とすべきかもしれない。と言うのも、佐賀・長崎、長崎・博多は“ネットきっぷ”と呼ばれる企画料金が適用されているようだが、鹿児島中央・佐賀に関しては“ネット予約”というだけのようだ…

“ネット予約”の御蔭で、<はやとの風>、<しんぺい>、<九州横断特急>という各列車に乗車出来て、乗車券そのものは割安な「鹿児島中央・佐賀」の“通し”で求めて、熊本・鳥栖を普通列車で移動後、鳥栖・佐賀は自由席特急券で<かもめ>に乗車したのだった…

“ネットきっぷ”に関しては「<かもめ>の往復」のようなものだが、往路は787系、復路は885系と違う種類の車輌だったのが愉しかった…

今後も…こういう具合に「使った切符を持ち帰る」ということは続けてしまいそうである…
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2015年01月09日

大分の“とり天”(2014.12.16)

あれは2012年12月だった…

前年の「全行程を鉄路で稚内から枕崎へ到達」という出来事の後、「九州の好い所を知らないまま…」というのが“微妙に不満”で方々を巡ってみることにした途中だった…大分市内在勤・在住の友人と連絡が着き、大分市内で昼食を頂く運びになった…先方は「大分“らしい”何か…」ということで、“とり天”を出す店に案内してくれたのだった…

爾来…“とり天”は記憶に留まり続けた…

要は「鶏肉の揚げ物」であるが…ポピュラーな“唐揚”のように「下味を着けて、粉を着けて揚げる」のではなく、「天麩羅の要領でスッキリと鶏肉を揚げて、調味料を着けて頂く」という“とり天”…大分市や別府市等でポピュラーな“郷土の味”らしい…

この“とり天”を頂く機会…設け損なっていたのだが…今般「日豊本線を南下」の途中に、それを設けることが叶った!!

↓大分駅構内の店で「とり天定食」というメニューを視付けた!!

↑つゆを入れる小鉢が在るが…そちらに“かぼす”(大分でポピュラーな柑橘のようだ…)の入ったポン酢を入れて、そこに“とり天”を着けて頂く…

↓鶏肉のどの部位なのか…柔らかく揚がっていて、美味かった!!


この店…「米飯はお代わり可」とのことだったので…当然のように頂いた…

実は大分に入る前に道草した杵築で、「妙に風が強い中での、意外に激しいにわか雨」というものに当たり、何か「日豊本線の南下…挫折か?」というムードにもなったのだが…“とり天”を頂いて「元気百倍!!」と、勇んでホームに駆け上がり―大分駅は高架になっている…―、「更に南下だ!!」と臼杵へ向かったのだった…

“とり天”…決して「特殊な料理」とも思えないが…何故か「大分の料理」だ…これが時折恋しくなるが…私のような暮らし振りで、独自に工夫をして揚げ物をするのは、後片付けで「自殺行為的な苦難」が発生しそうなので、敢えて挑もうとも思わないが…また、これを頂くためだけでも構わないので大分に寄りたい…実際…今般はこれを頂くためだけに大分駅で下車したが…(苦笑)
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佐伯駅&延岡駅:臼杵からやって来て延岡へ向かったキハ220(2014.12.16)

「<青春18きっぷ>を手に普通列車で旅を…」というようなことを考える場合…最近は、私は「真っ赤な文字の区間」と勝手に呼んでいるが、駅に掲出の時刻表に赤い文字で記される特急列車ばかりが目に留まり、「普通列車が少な目」または「極端に少ない」と思われる区間に存外な頻度で出くわす…

勿論、「最初から列車運行本数そのものが限定的」という区間も在るが、そういうのとは少し異なるのが、この「真っ赤な文字の区間」である…何気なく時刻表に目を落とす分には、朝から夜まで「1時間に1本?2本?3本の時間帯も?」というような、「普通な頻度」で列車が走っているように見えるが…<青春18きっぷ>のようなもので利用可能な“普通列車”ということでチェックすると…「何故だ!?」ということになってしまう…

小倉から鹿児島までの日豊本線に関して、その「真っ赤な文字の区間」という現象が「最も極端」なのは…大分県南東部の佐伯駅と、宮崎県北東部の延岡駅との間である…

↓臼杵からの列車で佐伯に着いた。臼杵の街を少し歩き、駅に戻ってみれば待機していた列車だった…キハ220は、先行したキハ200をベースに、“1輛運行”が可能なように、車輛の両側に運転台を据えるようにした型だ…

↑赤いキハ220…臼杵・佐伯間は電化された区間だが、“1輛運行”の輸送力が妥当と考えられているのか、この車輛が走っていた。実は前年にもキハ220を見掛け、乗車をした機会も在ったのだが、今般のモノは車体正面のデザインが少し異なっているモノだった…

この日は…「日豊本線を南下して、行ける所まで…」というように考えていたのだが…「真っ赤な文字の区間」という現象が「最も極端」な佐伯・延岡間で、“本数限定”の列車を巧く捕まえなければ、思うように進めない…

↓佐伯駅に掲出の時刻表をチェック…

↑時刻表の左半分…「正しく真っ赤な文字」だ…

この佐伯駅の時刻表…真ん中に“○時”と時間帯が記され、右側は大分、小倉、博多方面の列車の発車時刻が、左側は延岡、宮崎方面の列車の発車時刻が各々記されている…

右側に関しては緑色の文字が目立つ。これは「この時刻の大分までの特急列車で発つと、大分で博多行に接続・乗換が便利」という意味のようだ。右側の赤い文字は、列車本数は少ないものの「宮崎・大分・博多」と長い距離の運行となっている特急列車だ。そして黒い文字は、大分方面との間を往来している普通列車である。

左側…「真っ赤!」なのだが、これは悉く「宮崎方面への特急列車」である。列車の運行頻度そのものは、「地方の、そこそこの規模の街の駅?こんな感じ?」という具合なのだが…一瞬「全部、特急列車なのか?!」と思ってしまう。目を凝らすと…黒い文字の普通列車が朝に1本、夕刻に2本の計3本在ることが判る…普通列車は「1日3本」だけだ…

この時、これを視て「“17時14分”というのに乗車すると…延岡に至ってから乗換えて、午後9時前に宮崎に至ることが叶う」と考えた。更に、夜は「宮崎泊」として翌早朝から活動しようとも思った…

乗車することに決めた列車まで…1時間半弱であったろうか…少し間が在った…駅周辺を何となく歩き、少し古そうな喫茶店が在ったので、そこで一息入れた…

喫茶店の店主氏によれば…佐伯・延岡間の小さな駅に、「正しく“県境”」に相当する地区が在り、そこから佐伯に通学している高校生で「必ず“19時33分”で帰宅」という例が在るのだそうだ…私はその1本前に乗車するが…普通列車はとにかく本数が少ない…

佐伯に至るまで、鉄道や道路の開通以前は「寧ろ船で移動?」と見える地形の車窓を視ながら来たことを話題にすれば、以前に当時80代以上の高齢者と話しをした時、「子どもの時分に船で…」という話題が出ていたこと等を教えてくれた…また佐伯駅周辺は市街からやや外れるらしい…確かにひっそりした感じではあったが…

そういうような話しを聴き、珈琲を頂き、喫茶店の席でノートパソコンを開いて宮崎の宿を予約し、かなり日が傾いた感じの佐伯駅に向かった…

↓「“17時14分”の南延岡行の普通列車が3番乗場」という案内だったので行ってみる…「見覚えが?」と少し首を傾げた…“佐伯”だった行先表示は“南延岡”に切り替わっているが…同じ“キハ220-205”である!!

↑臼杵から乗車して来たキハ220…到着以来、ここで待機し続けていて、改めて南延岡行の列車として佐伯から出発することになる…臼杵・佐伯間がこのキハ220であったのは、実は「車輛を送り込む」という意図だったことが判った…乗車してみれば、臼杵から乗った際の席には先客が在ったので、他の席に陣取ったが…中も全く同じだ…

方向が逆ということにはなるが、以前に延岡・佐伯間を特急列車で通り過ぎたことが在る…

延岡・佐伯間を通過したのは、南宮崎・大分間で特急列車を利用した場面でのことで、陽が傾いてから特急列車で北上し、延岡停車の随分以前に車窓は暗くなってしまっていた。列車が延岡を発車すると、車内に「次の停車駅 佐伯」という掲示が出て、その“次”までが妙に長い…南宮崎・延岡間は、駅間が短く思えただけに、少し妙な感じがした。

夜間に特急列車に乗車していて駅を通過する場面…大概は…暗い窓に自身の姿や車内が映り、その向こうに「駅そのものの灯りが見える」、「駅周辺の様々な灯りが見える」のが普通であると思う。南宮崎・大分間で特急列車を利用した場面でも、宮崎県内、大分県内各地で、通過駅でも「駅周辺の様々な灯りが見える」感じで、駅周辺が“田園”のような感じにしても、「駅そのものの灯り」は見える場合が多かった…

しかし…延岡・佐伯間の場合…「駅周辺の様々な灯り」、「駅そのものの灯り」というようなものが…「判らない」状況で、真っ暗な中を列車が進んでいたのである…或いは…「本当の“山の中”、または崖の下のような沿岸で、山肌と海の間のような場所に鉄路が敷かれている?」とさえ思ったが…地図で視てもそれには該当しない…更に駅も在る…

↓佐伯駅で見掛けたキハ220にも、「途中の主な駅」というようなものが掲出されている…


キハ220が佐伯駅を発つ辺りでは、未だ真っ暗でもなかったが、列車が進むに連れて辺りは直ぐに暗くなった。暗い中、キハ220がライトを煌々と灯し、エンジン音も高らかに進む…

キハ220は“ワンマン運行”だった…何かの用事で移動中と見受けられる人と、通学の高校生、他に私自身を含む旅行者風の乗客が何名かという「些かの空席を残す…」ような按配の車内で、各駅で停車して幾分の乗降が在った…そして判った…佐伯・延岡間は、「日豊本線の沿線」ではありながら、状況が「限られた列車が静かに発着するローカル線」のようになっているのだ。無人駅ばかりで「駅そのものの灯り」が極々慎ましい…“ワンマン運行”で、下車する乗客は運転士に定期券を確認してもらったり、運賃を確かめてお金を運賃箱に入れる等している…この佐伯・延岡間の各駅は山間や田園の中の小さな駅、それも無人駅ばかりなので、「夜間に特急列車で通過」の場面では「とりあえず真っ暗な…」というようにしか視えなかったのだ…

「あの時の疑問は氷解した…」と思いながら乗車していると、列車は延岡に近付いた…宮崎へ向かう列車への乗換は、南延岡でも可能だが、始発の延岡から乗込んでしまう方が好いかもしれないと、延岡で下車した…

↓延岡に着けば、スッカリと「夜!」という按配だ…


佐伯・延岡間…九州東海岸を貫く幹線の一隅でありながら、何かひっそりと「1日3往復」走っている、非常に“ローカル”な味わいの列車が視られる区間だ…

先のことは判らないが…“次”が在るなら、延岡で夜を明かし、延岡・佐伯の、朝の時間帯の普通列車に乗ってみるのも一興かもしれない…

それにしても…「日豊本線を普通列車で縦断」という話しは余り聞かないのだが…原因は、この佐伯・延岡間の普通列車が「1日3往復」、それも朝と夕方なので、利用機会が限定されてしまうということだと、経験してみてよく判った…
posted by Charlie at 18:29| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小倉駅&中津駅:811系電車(2014.12.16)

↓早朝の小倉駅に、「正面の白」が鮮やかな車輛が登場した…“中津”と行先表示が掲出されている…

↑福岡県内等で見掛ける機会が多い車輛のように思う…

この「正面の白」が鮮やかな車輛…811系電車だ。

811系電車は、福岡・北九州圏での快速列車増発、旧車輛からの入替を目指して1989年から1993年に製造された車輛だ。4両編成が基本で、28編成製造されたそうだ。全車が南福岡の車輛基地に所属しているという…なるほど、「主に福岡県内で見掛ける…」ということになる筈だ…

811系のボディーはステンレスで、車体は基本的に金属色のままになっていて、側面に赤と青の帯が配されてる。正面は白い塗装が施されている。ここはステンレスではない鋼材で出来ているようだ。過去には、この白い部分に別な色の塗装を施した広告仕様も存在したらしいが…視た記憶は無い…

↓乗客の少なめな早朝なので車内の画も撮ってみた…

↑クロスシートで、進行方向が変わると、座席の背もたれを動かして方向転換が出来る。各地の鉄道車輛で多く見受けられるような方式だ…さりげなく…画面右側奥の席に、私のバッグが写っている…これは新千歳空港に向かう場面で、持っていたバッグが“ショルダーバッグ”として使えない状態に壊れてしまったことを受けて、急遽空港内の店で求めたモノだ…「今般の旅の“思い出の品”」ということになる…

この811系…基本の4両編成、または1輛抜いた3両編成、更にこれらを組み合わせて、もう少し長い編成で運用されるようになっているようだ。この時は…4両編成だったと記憶する…

冬の遅い夜明けの中、列車が小倉駅を発つと、途中で乗客が入れ替わりながら南下する。「やや早めな通勤・通学」という雰囲気だった…

“県境”に該当する短い区間では、小倉以降長く眼に留まっていた制服姿の高校生が何となく視えなくなる…県境を越える通学は稀なのであろう…

↓列車が中津駅に到着した…

↑乗って着いた列車の車輛を何となく眺めるのが好きなのだが…この車輛は直ぐに“折り返し運転”のようだ。既に“門司港”という行先表示が掲出されている…

福岡・北九州圏…実は「何となく思う以上に広い」と思う。「列車で一寸…」と思うと、存外に乗車時間は長くなるが…そういう場面で登場する811系…なかなかに快適だと思う。

振り返ってみれば…小倉から「日豊本線縦断」に出発する前日、福岡空港で九州上陸を果たし、地下鉄で博多駅に向かい、博多駅の改札を潜ってホームに出てみれば待機中だったので思わず飛び乗った小倉方面への普通列車…これが811系だった…或いは「九州上陸後、最初に乗る可能性が在る、博多を軸に周辺を走っているJR車輛」として、この811系を記憶に留めたい感じだ…
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2015年01月08日

中津城(2014.12.16)

立寄る先に“○○城”というようなモノが在ることに気付くと、「時代モノ好き」としては少々気に掛かる…これまでにも“○○城”というような場所については、色々と訪ねてみた経過が在る…

日豊本線の沿線には、その“○○城”という場所が多々在ることに気付く…福岡県北東部沿岸から大分県の沿岸部に“○○城”というものがずらりと並んでいるようにも見える…

現在では、自動車が行き交う道路も在れば、今般の旅で利用した日豊本線も在って、福岡県北東部沿岸から大分県の沿岸部は往来も容易だ。しかし…実際にゆっくりと車窓を眺めながら日豊本線を動いてみて思ったが…大分県の沿岸部各地は「深く入り込んだ入江に山が迫る」ような地形の場所が連続していて、城が設けられた町と町との間を往来するような場合には「寧ろ船を出す」というような具合で、城の設けられた辺りからは、そこから内陸側に在った各集落との間で人やモノが盛んに往来していたというような状態だったのかもしれない…現在では“大分県”で一纏まりだが、嘗ては豊前国の一部と豊後国であった訳で、各国内の郡に関しても、交通事情で相互の繋がりは想像以上に薄かったのかもしれない…

色々と思うところは在ったが…小倉から列車に乗って、日豊本線の南下を始めると…或いは最初に現れる、多少目立つ“○○城”は中津城ということになる。加えて…小倉からの列車に関しては“中津行”も存外に目に付く…私が乗車した列車もその“中津行”であった…中津で、一寸駅を離れて、城を眺めに行ってみるというのも、「日豊本線を南下する途中の道草」としては、なかなかに好いように思えた…

中津駅から歩いて、何となく見掛ける案内図等を頼りに、中津城に至った…

↓「大きい!」というイメージではないが、何か美しい型の建物が目に留まる…


中津城というのは…1587(天正15)年に豊前国内の知行地を豊臣秀吉から与えられた黒田官兵衛(孝高)が、翌1588(天正16)年に、交通の便が良い河口部であり、知行地の中心辺りに相当するということで中津に築き始めた城が起源ということになる…

黒田家が福岡へ移った後、細川家が豊前に知行地を与えられ、中津城は細川家が手を入れている。やがて細川家が熊本に移ると、小笠原家が中津城に入り、与えられた一帯の知行地を治める。1717(享保2)年に至り、小笠原家に代って奥平家が中津城に入った。以降、明治維新まで、中津城は奥平家の居城となる…

↓最も目立つ建物だが…これは1964(昭和39)年に建てられた模擬天守とのこと…

↑辺りに櫓が設けられていたことは確かなようだが、中津城に天守閣が在ったか否かかは定かではないようだ…

城に関しては、天守閣のように壮麗な建物が目を引くのだが…実は“城”としては「防衛陣地としての構造」(“縄張り”と呼ばれる全体の配置や、地形を利用するか、石垣のようなものを築く等している「侵入する敵への備え」)がより重要であり、また「領主が居る場所」である以上、“領主の公館”であって「領内の治世を司る仕事が行われる政庁」という機能を担った、“御殿”と呼び習わされたモノの方が重要かもしれない…

↓そんなことも思うのだが…この模擬天守…なかなかに美しい…


中津城は、堀に海水が引き込まれているらしい…恐らく、海の干満で堀の水量も変わるのだと想像する…

↓立ち寄った際には「やや堀の水量が少ない?」とも思ったが…堀と石垣が設けられていて、石垣の上に建物が在ると、凄く「城らしい」感じだ…


↓設置された自販機に、城の写真が使われているのが面白いと思った…

↑「未だ早朝」という時間帯に立寄ったので、模擬天守の建物内に設けられた資料館のオープン前で、資料館に立寄ることは叶わなかった…

最近は「“大河ドラマ”縁の…」という観光振興宣伝が定番化、常態化しているように思えるが、その一環でもある「黒田官兵衛縁の…」というような宣伝は、中津でも随分と見掛けた…

中津城の跡は、明治期以降は行政関係の庁舎として利用されたり、学校関係の建物として利用されたり、西南戦争の時期に戦災に遭うというような色々なことが在った様子だ…

一つ記憶に留めたいのは…美しい模擬天守が見える辺りに通じる街路に、「嘗ては城内の一画で、重臣の屋敷の門であった」という場所が在って、その“門”が地元小学校の校門になっていたことだ…

大勢の小学生が登校するような時間帯に辺りを動き回っていて、撮り悪かったので門の写真は撮っていないが…「ここの小学生…酷く立派な門を潜って毎日登校しているな…」と様子を眺めながら「駅の側へ引揚げよう…」と進んで行くと…「おはようございます!」と元気に挨拶をしてくれる小学生諸君と次々に擦違った。言われれば…思わず「おはようございます!」を返す訳だが…そんな道筋には、地元のおじさんやおばさんが、紺色のユニフォームに身を固めて、“交通安全指導”というようなことで横断歩道辺りに立って、登校する小学生達と挨拶を交わしながら様子を見守っていた。

旅先で偶々見掛けた小学校近所の様子…小学生達の登校風景だったが…地元のおじさんやおばさんが見守る中、私自身のような「通りすがった人」に挨拶の声を掛けるような小学生達…という様子に出くわした…「何となく温かい感じがする街だ…」というように思った…

そんな街で、街の歴史を伝える城址…記憶に留めたい…

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中津:合元寺(ごうがんじ)(2014.12.16)

「赤い壁の寺」と言われても…「?」という感じである。

“寺”と聞けば、思い浮かべるのは白い漆喰の壁や塀であったり、木造で材料の木材由来の色の壁面が見える建物である。「赤い壁」と言われても、「どういうモノか?」という具合だ。

神社関係で、朱色を建物や鳥居に用いている例は幾らでも在る。しかしあれは朱色で在って、「赤い壁」というような表現は耳目に触れ悪い…

↓中津に立寄り、「赤い壁」と言う以外に適切な表現が見当たらない寺が本当に在ったのを視た…

↑「普通は白い漆喰」と思われるような壁を、正しく「赤く塗り込め」ている…“赤”と呼ぶ以外に、表現が思い浮かばない…一寸驚いてしまった…

「日豊本線を普通列車で南下して、行ける場所まで…」という思いで<青春18きっぷ>を手に、早朝の小倉駅を発った。やや薄暗い中、通学の高校生が多く見受けられた列車で県境を越えて中津に至った。小倉・中津間に限ったことでもないが、何度か通学時間帯の列車に乗り合わせて気付いた…市町村の境目を越えた通学は珍しくないようだが…「県境を越えた通学」と見受けられる光景は稀だった…小倉からの列車では、「福岡県内」で制服姿の高校生の乗降が何箇所かで見受けられたが、県境を跨いで中津駅に向かう区間ではそうした乗客の姿が途切れたのだ…

そんな様子で中津に着いた…中津は江戸時代には城下町であった場所で、その種の街にはよく在るが、古くからの市街から「やや歩く」必要が在るような辺りに鉄道駅が設けられている。中津城へ向かってみようと、駅からゆっくりと歩き始めて暫く行くと…この「赤い壁の寺」としか表現出来ない寺が在った…余所では視たことのない独特なモノで、少々驚いた…

↓この「赤い壁の寺」…合元寺という寺だ…

↑「赤い壁」は類例が無いモノなので…寺の名称を刻んだ標柱にわざわざ“赤壁”と刻んである…或いは“赤壁寺”というような“通り名”になっているのであろう…

合元寺は浄土宗の寺で、1587(天正15)年に黒田官兵衛(孝高)がこの地を知行するようになって移って来たことに合わせて、旧領の姫路から移って来た空誉上人が開いたという。

黒田家による統治について、旧来からの勢力は必ずしも協力的ではなかった中、1589(天正17)年、この辺りの元領主で求心力が在った人物であった宇都宮鎮房を、黒田家が中津城内で謀殺するという事件が在った。事件当時、宇都宮鎮房に従って中津に来ていた家臣達は近くの合元寺に拠って抵抗したが、結局は討ち果たされてしまった…

この騒動の後…合元寺の白い壁には、宇都宮鎮房謀殺を巡る事件で怨念を残して死んだ者達の返り血が着いた…その赤い染みが、何度白く塗り直しても浮かんでしまう状況だった…そこで何時しか、壁を赤く塗るようになったのだという…

↓この赤…恐らく、何度も何度も、最近に至るまで塗り重ねているように見受けられた…

↑所謂“天下統一”という流れで、「天下人が重臣に知行地を与え…」ということで黒田家が入った後も「根強い抵抗勢力が在った」が故に起こった事件…そうした古い事を伝える筈の“赤壁”なのだが…何か「斬新!!」とか「前衛的!?」とも見えてしまう…或いは「凄く和風なデザインに鮮烈な赤の塗装」というようなデザインが面白いかもしれない等、埒も無いことを考えながら眺めてしまった…

↓やや赤い色が褪せているように見えた箇所も…

↑塀の内側の建物も、一部は確り“赤壁”なのだ…どうも関係者が普段の寺の活動を行ったり、或いは住んでいる気配が在るのだが…「真っ赤な壁の建物の中に居る」というのは、どういう気分なのか?

「赤い壁の寺」と言われてもよく理解出来なかったが…正しく「百聞は一見に如かず」で、立寄って視てよく判った…或いは…これを一寸視てみるだけのことで、中津に寄るのも面白いかもしれない…それ位「珍しいモノ」というように思えた…
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杵築駅:815系電車(2014.12.16)

出掛けた先で動き回る中、「何となく眼に馴染む」という具合になる乗物が幾つか登場するように思う。

例えば、九州を訪ねてJRの普通列車を何度も利用すると、「あそこでも…そこでも…ここでも出くわして乗車した…」という車輛が幾分現れ、それが記憶に残る…これまでは、そういうモノとして817系電車が記憶に残っていて、「九州で何となく頻繁に出くわす鉄道車輛」として817系が直ぐに頭に浮かんだ…

今般、その817系の他…

↓815系が「何となく眼に馴染む」という具合になった。

↑雲が多めであったものが、不意に日差しが眩しくなった杵築駅での画を取り上げたい…車体が輝くような具合に見えたのが好かった…

815系電車…1999年に初登場したそうだ…熊本地区、大分地区で主に使用されているのだという…今般、正しく大分県内(日豊本線)と熊本県内から福岡県南部に掛けて(鹿児島本線)でこの815系電車に乗る機会が在った。

815系電車は、やや前後は在るものの、近い時期に登場している813系電車や817系電車との相互連結運転も可能であるということだが…今般乗車した815系電車は、何れも2輛運行のものだった。駅で切符を購入して、改札を受けて、乗車後に駅員に切符を渡すというような、「有人駅で乗降」ということであっても、列車そのものについては「車掌が居ない」型で、「運転士だけが乗務」という“ワンマン運行”をしていた区間が多く見受けられたが…815系はそういう区間での活躍が多かった。

↓ステンレスの銀色の車体だが、車体の正面側と扉とは赤―JR九州のカラー―で、これがなかなかに好い!!

↑正面の行先表示の感じや、車輛形式を入れている辺りの感じは、所謂“水戸岡デザイン”である…

この815系電車だが、内部はロングシート…「多数の乗客が乗る」ことを想定したデザインだ…ここでは杵築駅の画を使っていて、この時は午前中の中途半端な時間で空いていたのだが…杵築から大分に向かった際の815系では、別府から大分の辺りでは存外に車内が込み合ったし、熊本辺りでは夕方の“通勤・通学”の時間帯に乗車して込み合っていて、内装がロングシートであることに納得した…2輛編成の場合、少し大きな街と近郊を結ぶ区間であれば、時間帯によっては多少車内が窮屈になることもある。そんな場面では、ロングシートが好ましい…

↓杵築を離れようとした頃…雲が多くなって来た…

↑こうしたフラットな光でも、「銀と赤」はなかなかに好い…

電化区間で、電車を用いている場合に関して、九州では「JR時代以降の車輛」が多くなっている。そうした中、この815系も頻繁に見掛けた…
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2015年01月07日

人吉・熊本間で乗車した<九州横断特急>(2014.12.19)

「列車での移動」に際しては、「純粋に用事で移動」という場合の「可能な限り早く確実に動く」という基本的な要素が不可欠である他方、「“純粋”な用事でもない、お楽しみな旅行での移動」というような場面では、「より快適に」とか「(天候条件にもよろうが)美しい車窓でも楽しみながら動く」というような要素も大切なように思う。私の場合…「純粋に用事で移動」という場合でさえも、「美しい車窓でも楽しみ…」と考えてしまう傾向や、「車内販売の珈琲が!アイスクリームが!」と楽しみにしてしまうことも在るのだが…

JR九州の幾つかの列車に関しては、「可能な限り早く確実に動く」という基本的なことに加え、「より快適に」ということや「美しい車窓を愉しみながら移動」という点に配意をした列車が運行されているように思う。

<九州横断特急>…何となく大袈裟なような、豪快な命名の列車が在る…別府や大分と、人吉や熊本との間を、途中に阿蘇の高原を通過しながら結ぶ列車である。文字どおりに九州を東西に横断しながら運行されている…

「鹿児島から佐賀へ北上」と考えた時、<はやとの風>、<しんぺい>に乗車して、人吉から先でこの<九州横断特急>に乗車して熊本に移動することを思い立った…「人吉から先へ進む場合」の“接続”が、そういう具合に設定されているということも在るが…

<しんぺい>が人吉駅に到着した。「そこに鉄路が敷かれている」という事実“自体”を或る種の産業遺産、文化遺産として紹介し、向き合うような<しんぺい>という列車での移動が、思った以上に愉しかったという余韻に浸りながらホームに立つと、次に乗車する<九州横断特急>が発車に向けて待機していた…

↓赤いディーゼルカーが、夕闇が近付く人吉駅で並んでいる…

↑人吉駅では、跨線橋ではなく“構内踏切”でホーム間を移動するようになっているので、こんなアングルで車輌を視られる…

<九州横断特急>は、JR九州のカラーである赤い塗装が施されたディーゼルカーだ。キハ185系という型で、国鉄時代最末期の1986年に登場した。四国で活躍している車輛だが、JR四国が新型車両を導入して余剰が生じた他方、JR九州で旧型車の入替を検討していたという事情が生じ、一部がJR四国からJR九州へ売却された。現在では、このキハ185系は四国と九州で視られる。

このキハ185系だが…同時期に初登場して、現在も北海道内で視られるキハ183系500番台・1500番台―手近な辺りでは、稚内・札幌間の<サロベツ>に使用されている車輛がそのキハ183…―と雰囲気が非常に似ている。が、JR九州で見受けられるモノは「2輛運行」が可能なように改装されている。また、阿蘇の高原のような山岳路線で運用するために、エンジンを増設してパワーアップしているそうだ…

↓この<九州横断特急>…車輛の正面をよく視ると…“ワンマン”という表示が掲出されている…


“ワンマン”…基本的に「運転士1名が乗務して運行する」という意味だ…今時の列車…車掌が乗務していても「次は○○」というような停車案内は録音が流れる仕組みになっているので、ローカル線の無人駅のように「運転士に確認して運賃を支払う(運転席脇の箱にお金を入れる)、または切符や定期券を確認してもらう」という場面でも無ければ“ワンマン”は然程意識しないようにも思うが…

この“ワンマン”の<九州横断特急>だが、乗車する分にはその“ワンマン”を殆ど意識しなかった。と言うのも、車内販売等の乗客サービスを行う女性の客室乗務員が乗務していて、何処かの駅に着く手前では、車掌がやるような具合に「御乗換え列車の御案内を致します。○○行普通列車はX時X分、△番乗り場…」というアナウンスをしている。更に車掌が行う要領で車内検札も在る…一瞬…「女性の車掌が珈琲も売っているのか?」という感じさえした…

ところで…JR九州では「○番線」とか「○番ホーム」という言い方は聞かない…専ら「○番乗場」という言い方をするようだ…駅構内でのアナウンスでも、列車内の案内でも、これは共通しているように見受けられた。「判り易さ」に「こだわり」を持っているのであろう…

方々の鉄道を利用して、案内に不満を抱いた場面は殆ど思い当らないが…一つ「あのな?!」と思ったことが在った。在る駅で「上り特急列車」とか「下り普通列車」というような“上り”、“下り”だけで「○○方面」とか「○○行」を言わない案内を流していたことが在った。初めて入り込んだ地域だったので、“上り”、“下り”だけでは「どっちへ進むんだ?!」という状況であった…しかも…その時は、何やら事故の影響とやらでダイヤが乱れた状態がなかなか復旧せず、「苦戦しながら移動中」という状況だったのだ。掲出してある時刻表を視ても、どの列車が話題になっているのか推量することも不可能である。ここは、例えば「上り、○○方面の特急列車」とでも案内して頂かないと、判らない…

<九州横断特急>も、車内で「乗車記念カード」を配っている。水戸岡デザイナーのイラストが入った、美しいカードだ…

↓<九州横断特急>、<しんぺい>、<はやとの風>と3枚揃うと、なかなかに好い…


人吉・熊本間では、球磨川の車窓が好いのだが…既に夕刻なので、直ぐに暗くなってしまい、大変残念ながら車窓は然程楽しめなかった…

↓やがて列車は熊本駅に到着する…


熊本…九州屈指の大都市と言える…“政令指定都市”である…大きな建物も見える中に2輛運行の列車が停まっている…

<九州横断特急>は人吉・熊本間と以降の区間では運転方向が変わる。この後、乗って来た時には後尾だった側が先頭になって、熊本から先へ向かう乗客を乗せた<九州横断特急>は街の灯りに向かって去って行った…

旅に出て戻ってみると…歩んだ行程の好さを想い起して懐かしむということの反面…「もう少しここで時間を費やすべきだったのでは?」とか、「このコースを通るべきだったのでは?」というような、“反省以上・後悔未満”とでも呼ぶべきものが込み上がる場合が在る。<九州横断特急>は、今般の旅から戻った後の“反省以上・後悔未満”かもしれない。或いは大分県内から鹿児島への南下コースに<九州横断特急>を採り入れるという選択も在ったかもしれない。またはもう少し早い時間帯に乗車するようにして、もう少し車窓を愉しむ術も在ったかもしれない。更に…初めて訪れた際に熊本城で酷い雨に当たってずぶ濡れになって以来、何処と無く「熊本に冷淡ではないか?」という状態なので、熊本でもう少々ゆっくりすることも出来た筈である…

色々な思いが在るが…<九州横断特急>も、少し興味が在った列車で、乗車が叶って好かった…他方、“次”が在れば、大分県・熊本県のルートを文字どおりに“横断”してみたいとも思う。
posted by Charlie at 19:36| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<しんぺい>が停まる矢岳駅(2014.12.19)

吉松から人吉までの区間…何か独特な雰囲気が在る…

嘗てこの地域に鉄道を通す計画が持ち上がった時、「沿岸部は戦時に艦砲射撃等の攻撃を受けてしまう危惧が在るので、内陸を通る経路が好い」という話しが在ったらしく、現在は“肥薩おれんじ鉄道”になっている部分を含む熊本県から鹿児島県にかけての沿岸部ではなく、内陸側の肥薩線のルートの方が先に鉄道が敷かれたそうだ…

そういう「山間に鉄道を敷設」という状況であった故に、急過ぎる勾配では機関車が上ることが叶わないということでループ状に線路を敷設したり、スイッチバック方式を採り入れたりと工夫を重ねており、また難工事を経たトンネル区間も多く在る…そういうような区間は、考えてみれば少数派である。普通は「ここなら工事が容易である」という場所に鉄道を敷設するであろうし、そういう場所こそ古くから町が点在していて交通機関への需要も見込める筈なのだから…

以前に普通列車で肥薩線のこの区間を通った際にも、独特な雰囲気の車窓を愉しんだが、<しんぺい>は「ここは!」という地点で敢えて停車するような、大変に嬉しいこともしてくれるので、より一層楽しむことが叶う移動となった。

↓吉松側からであれば、矢岳駅の手前にあたる位置で、2分間程度だと思うが、<しんぺい>は停車する…

↑霧島山系の連山と、えびの市の京町温泉辺りであるという街が手前に見えるこの光景!!なかなかに見事だ!!

<しんぺい>は「峠を上ってから下る」ような具合に進むが、吉松からはどんどん標高が高い方へ進んで行く…

↓矢岳駅が、最も標高が高い辺りとなる…標高は536.9mだそうだ…

↑<しんぺい>に乗車の前々日、えびので酷く雪が降っていたことが記憶に新しかったが、標高が高めな矢岳駅辺りも積雪がかなり残っていた…

↓<しんぺい>の赤い車輛が、雪の白さに非常に映えた!!

↑宮崎県、鹿児島県、熊本県は“温暖”なイメージではあるが、県境の山間部は存外に寒く、雪も降り積もる…とは言っても「冬の間、常時」ということでもない…そうした意味で「雪の矢岳駅に赤い<しんぺい>が停車」という様子は、「少し珍しい」ということになるかもしれない…

矢岳駅の周辺…非常に不便な場所だが、鉄道開通後は集落が拡大していた時期も在ったという。しかし、こちらの経路を通る列車が少なくなる中で、次第に過疎化が進んだという。集落には小学校も在ったというが…現在では休校扱いだという…

「赤い車輛が白い雪に映える…」と、様子に見惚れている間に列車が発車する時間が迫った…窓辺の積雪を眺めながら、更に進んだ…ここからは「峠を下る」というように進む…
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<しんぺい>が停まる真幸駅(2014.12.19)

“真幸”は「まさき」と読む。「真の幸せ」ということに通じるので、人気が在るらしい…<しんぺい>が吉松駅を発って、最初に停車するのが真幸駅だ…

↓赤い車輌が、こういう場所に在ると、何か凄く画になる!!


<しんぺい>は、沿線の各駅で少し停車時間を設けて、駅の様子等を眺めることも出来るようになっている。こういうのが、なかなかに嬉しい!!

真幸駅は、肥薩線の中では唯一「宮崎県内」になる駅である。1911年に開設されたそうだが、現在の吉都線が開通して宮崎県内で鉄道駅が開設されたのは1912年のことなので、真幸駅は「宮崎県で最初の鉄道駅」ということになる…

↓駅舎は、そんな「県内初の鉄道駅」として登場した当時の面影を伝えるものだ…


↓発着列車の案内は…“利便”よりも“雰囲気”を重視した感じのモノが掲示されていた…

↑駅周辺は「林の中」のような様相で、平均乗降客は「数名」という次元らしい…「1日5往復」の発着で、2往復は<いさぶろう/しんぺい>だ…

真幸駅は、険しい山に敷かれた線路の途中で、スイッチバック運転を行う場所になる。そのため、嘗てこの辺りを走っていた急行や特急も、乗降扱いの無い場合も含めて必ず停車した駅だという…

↓真幸駅のホームには「幸せの鐘」というものも設置されている…


この真幸駅…周囲に集落という程のものも無い、正しく“産業遺産”そのものである…一度は通り過ぎている場所を再訪した型だが、強い印象が残った…
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2015年01月06日

長崎の路面電車:長崎駅前停留所の305(2014.12.20)

初めて長崎を訪ねた時は、長崎駅の正面入口から反対側に在るバスターミナルに、すっかりと暗くなってから到着した。「とりあえず長崎駅へ…」と思うと、何やら大きな歩道橋を渡るようになっていた。ゆっくりと歩道橋を上ると、歩道橋の下でライトが歩道橋側に近付いて来て、何か音が聞こえる。路面電車だった…

長崎駅前の歩道橋が、路面電車の軌道の上になっていて、“跨線橋”のような様相になっている。歩道橋から電車の停留所へ下りて、電車に乗るような按配だ…

“初めて”の時にそういうことが在って、「長崎=到着すると路面電車が迎えてくれる場所」というような感じ方をしている。そして“初めて”はバスで着いたが…以降は列車で長崎駅に着いている…駅に着いたにしても、歩道橋が“跨線橋”のような様相を呈している長崎駅前停留所の辺りで、現れる路面電車を視る、というのが「長崎に着いて最初のアクション」である…

今般…「とりあえず、何処へ向かおうか…」と鹿児島から佐賀まで北上―<はやとの風>や<しんぺい>に乗車した愉しい移動だった!!―し、色々と考えてから長崎に寄ることにした。結局…「長崎=到着すると路面電車が迎えてくれる場所」というのが妙に気に入っているということで…「折角、九州に上陸した以上、長崎を一寸視なければ…」という感覚が在るのであろう…

小雨模様…或いは、「少しだけ強い?」という具合の雨だったが、特段に街の交通や人の往来に支障が在るでもない中、「とりあえず路面電車で移動して、ランチでも…」と思い付き、“1日券”を入手した。

↓「長崎の路面電車」とでも聞けば思い浮かべるような雰囲気の車輛が、長崎駅前停留所に登場した…

↑傘を手にした少年が運転士さんの居る側に駆け寄り、「乗せてよ!」とアピールしたが、扉を閉めて少し動き始めたところだったので、「次の電車に…」という意味で運転士さんが首を振っているという場面が見受けられた…何か「日常に路面電車が深く根差した街」という感じもした場面だった…「次の電車」だが…然程待たずともやって来る…

長崎では「永年に亘って活躍」という車輛が大切に使用されている感じだ。停留所で見掛けた“305”…この300番台の車輛は、1950年に登場した200型と殆ど同一のモノで、1953年に“301”から“310”の10輛が製造された中の1輛ということになる。既に60年を超える期間、長崎の街で活躍していることになる…

300型については、実質的に同型の200型と合わせると計26輛が製造され、これまでに2輛が退いているということで、現在でも24輛が活躍中ということになる…ということは…見掛ける頻度も高くなる筈で、「“長崎の路面電車”とでも聞けば思い浮かべるような」という感じ方も、誇張ということでもない…更に思うのだが…1950年代辺りには、戦災から街が立ち直り、輸送需要も増えていて、長崎電気軌道でも「新車製造」に力を注いでいたのであろう…

↓“305”が向かうのと反対側へ進む電車に乗車しようと歩道橋から停留所に下りていたが…この辺りは信号が多く、頻繁に変わるので、“305”は今一度、信号で停車していた…

↑これまでに「写真に撮っていない角度!」と妙に喜んでこの様子を眺めた…

今般は、長崎での時間がやや短く、然程多くの路面電車の画は撮っていないのだが…この“305”のようなモノに出くわすと…「“長崎の路面電車”を視た」という、高い満足感が得られるような気がする…
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2015年01月02日

鹿児島の路面電車:黄昏の鹿児島駅前停留所に並んだ9501、1014、507(2014.12.18)

「路面電車好き」としては、鹿児島駅前停留所に一寸立寄り、近くのコンビニで飲み物―珈琲、ミネラルウォーター…場合によって<さくらじま>や<黒白波>のペット容器―を求めて、「電車を眺めながら一息…」というのが好い…

鹿児島の2つの運行系統の路面電車は、何れもこの鹿児島駅前停留所到着後に折り返すようになっている。故に、この場所には結構な頻度で「電車が通ります」の警告が鳴って電車が忙しく発着する様子が見られる…

早朝にはやや雲が多い感じで、次第に天候が好転したこの日…黄昏の時間帯には「夕暮れの紫」というような空が麗しかった…

↓画面左の1番ホームから、右の3番ホームにまで、3輌の電車が並ぶ…

↑各々、次の発射の際の行先表示を掲げて待機している。

鹿児島駅前停留所からであれば…“1系統”は高見馬場停留所で左折し、交通局前辺りを経て、郡元から更に谷山へ向かう。“2系統”は真っ直ぐ鹿児島中央駅前停留所に進み、そこから郡元に至る。原則的に“1系統”は青い方向幕、“2系統”は赤い方向幕なのだが…「電光掲示方式」の新しい車輌は、文字をよく見なければならない…

左の1番ホームに停車中の9501…全国各地で見受けられるような、この20年程に登場しているようなタイプだ。右の3番ホームに停車中の507は…「半世紀を超えて活躍中」というタイプである。真ん中の1014は、所謂“超低床”のモノで、2000年頃から活躍する、この種のモノの“国産”としては最初の頃のモノとなる型だ…

こういう具合に、「20年程の車輌」、「半世紀超えの車輌」、「21世紀の車輌」が各々に活躍しているというのが面白い…

因みに「21世紀の車輌」ということになる1000型…なかなかの“優れもの”だ。この時、近くに車椅子を利用している方が在った。誰かが介助しているでもなく、1人で動いていた。何やら電車を待っているように見えたその方…向かう先を通ると見受けられる1000型の姿を見掛けると、車椅子ですうっと電車に近寄って、特段に誰かの介助も受けずにすうっと乗車していた。「電車に乗る」というよりも「エレベータに入る」という具合だ…

「市内の交通手段」として路面電車が一定の大きな存在感を持っているように見受けられる鹿児島だが、写真の1014の同型等、所謂“超低床”の配置に努めている…それが「誰でも利用し易い」モノであることを実感する場面に出くわしたということになる…

それにしても…様々な世代の車輌が「夕暮れの紫」な空の下で並ぶ様は美しい…
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鹿児島の路面電車:鹿児島中央駅前停留所周辺の9515(2014.12.18)

「鹿児島に着く」と言えば…空港からのバスにせよ、県内外他地域からのバスにせよ、新幹線にせよ、在来線の列車にせよ「鹿児島中央駅に到着」というイメージが強いかもしれない…その鹿児島中央駅に着いた後の移動では、路面電車は使い易い…交通量が多めな駅周辺の道路を横断することなく、駅前広場に2本の軌道と乗降場が寄り添っているので、駅の出口から真っ直ぐ停留所に向かうと乗車可能だ…

その鹿児島中央駅前停留所…路面電車を眺めるのも、乗車することも好きな私にとって「鹿児島のお気に入り」となっている…

↓その鹿児島中央駅前停留所辺りで見られる光景だ…


この時は…<屋台村>での夕食を愉しむ前に、申し込んであった翌日の列車の券―<はやとの風>、<しんぺい>、<九州横断特急>を乗り継ぐプラン…―を引き取ろうと鹿児島中央駅に向かったのだったが…その際に思わずカメラを向けた…美しい!!

鹿児島の路面電車は、火山灰性の材料で造ったパネルを軌道に貼り付けて芝生を植えている…「緑の絨毯のような軌道を、新旧様々な車輌が行き交う」という、なかなか美しい光景が見られるのだが…この時の光加減は、何か「芝生の絨毯の上に、赤い電車が浮かんでいる」かのようだ…奥の商業施設の壁面に<さつま白波>の広告看板というのも、また好い!!

丁度「入換え時期」だったようだが…本来、この鹿児島中央駅前停留所辺りの軌道脇は美しい花壇で彩られている…
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門司:電気機関車 EF30 1(2014.12.15)

関門橋の眺望を愉しみ、暗い夜道で高台から海岸に下りた時…広場風になった和布刈公園の一部が眼に留まった…

↓近付いてみれば、こんなモノが現れた…

↑関門トンネルで活躍していた古い電気機関車だ…照明の具合のために、何か「トンネルの中」で出くわしたような気分になった…

EF30という機関車…1960年に登場したそうだ…下関側からトンネルまでは直流電化で、九州側は1961年から交流電化となった。下関・門司間で活動する機関車として、交直両用である車輌…更にトンネルの勾配でも貨物列車が牽引可能なパワーを持つ車輌が求められ、このEF30が登場した。合計22輌が製造されているという。

海水の湿気で金属部が錆びる危惧が在る関門トンネルを活動フィールドとする機関車だけに、ステンレス版の車体となっているEF30である…

この和布刈公園の“1号機”は、僚機に先駆けて製造された“先行試作”の機関車らしい…この“1号機”は1978年に引退していて、他のEF30も1987年までに全て引退している…

和布刈公園の“1号機”は、登場した1960年代に使用していたような客車と共に、活躍していた海峡を眺めながら、静かに地元の歴史を伝え続けていた…
posted by Charlie at 10:11| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする