関西エリアの私鉄を利用し易い“スルッとKANSAI”で動くことを想定し、チケットが有効なエリアへの第一歩を大和八木に記すことにした。今井町を訪ねてみたかったからだ。大和八木に至ることに決めた時、直ぐ近くに橿原神宮前駅が在って、橿原神宮を訪ね易いということに気付いた。そこで寄ってみることにした。
旅では、思い付いて訪ねてみようとする場所の近くに、別な興味深そうな場所も在ることに気付き、それらを合わせて訪ねて楽しみが増すことが在る。私は、多少不慣れな土地でも鉄道やバス等で、普通の地元の人に交じって動き回ること自体をも「旅の楽しみの一部」と思っているような部分が在るので、こういうことはよく在る…
橿原神宮を擁する奈良県橿原市は、奈良県下では36万5千人程度の人口を擁する県庁所在地の奈良市に次ぐ、12万5千人程度の人口を擁する街である。市内の大和八木駅や橿原神宮前駅では、近鉄の各路線が交差していて、交通が便利な場所である。
>>面積・人口等一覧/奈良県公式ホームページ八木西口駅から橿原神宮前駅へ近鉄電車で移動する。
↓到着してみた駅は…何処となく「神社の本殿??」という印象も受けるものだった。
↑駅構内の「橿原神宮→」という表示に従って出た出口の辺りである。
結果的に橿原神宮と駅との間を往来しただけに終始したが、橿原神宮の側は「神社の近所の静かなエリア」という感じがした。他方、駅の反対側には大き目な建物の姿が鉄道施設越しに覗き、「商業地区?」という感じがした。どうも、大和八木駅側の方が橿原市の中心的な市街に相当するらしいが…
↓静かな市街を歩き、橿原神宮の鳥居に至った…橿原神宮では“社務所”を“橿原神宮庁”と呼ぶらしい…手前の柵に書いてある…
↑未だ午前中でありながら、少し高くなった太陽の強い光に炙られるかのような中、この場に暫し佇んだ…
木製と見受けられる大きな鳥居が見え、灯篭が並び、“鎮守の森”という趣の樹木が在る…色画用紙のような碧空に、誰かが注意深く描いたかのような白い雲が少しばかり散っている…光線は強力なスポットライトのように辺りを照らしている。碧空も木々の緑も眩しい…地面の砂や、鳥居等の構造物が光る感じがする…じわりと額から汗が噴き出すのが判る…やがて「ジワーッ」という蝉の声が辺りに響き渡る…
次第に、「ジワーッ」という蝉の声に包まれるような気になる中、強烈な夏の光の中で、「夏の煌めき」というような表現が頭の中を過った。他方、じっと橿原神宮の鳥居の方を眺めていると、天地の様々なモノに込められた“力”のようなものが、周囲で静かに渦を巻いて蠢いているような錯覚に囚われる…
或いは、明確に“神道”と呼ばれるモノが現れて、それが宗教として体系化されたり、一般的な習俗の中に根を下ろす遥か以前の時代…夏の日の静寂という中、蝉の声のようなものばかりが聞こえる場所に佇んだ古人は「こういう感覚を覚えていたのか?」というような気がしてきた…
↓辺りに渦巻く、天地の“力”のようなものに導かれるような…「とりあえず遠路辿り着いた…」とばかりに、何も考えずに足を動かすような…或いは不慣れな暑さ故に呆然としてしまっているような感で歩を進めると、橿原神宮の各種の建物が在る辺りに至った。
↑本殿が在るエリアへ踏み入れる辺りの門には、向かって右側に“皇紀二千六百七十四年”という掲示が在る…
橿原市の命名の由来にもなっているらしいが、橿原神宮が在るのは、遥かな昔に「畝傍橿原宮」(うねびかしはらのみや)と呼ばれていた地であるという。畝傍橿原宮というのは、初代天皇である神武天皇の宮のことである。或る意味では「建国の地」ということになる場所だ…故に「何らかの力」が溢れ出ている地なのかもしれない…
神武天皇の宮が在ったとされる地に、神武天皇を祀る神宮を設けようという民間有志の動きが高まり、1890(明治23)年にこの地に橿原神宮が創建されたという。そういう場所であるが故に、神武天皇の即位を元年としている“皇紀”による年号が、門に掲げられている訳である…
↓本殿の辺りはとにかく広く、少々驚いた…
↑丁寧に砂が整えられた向こうに、なかなかに美しい建築が見える…
↓“神社建築”ということでは、古いモノも色々と在る中、橿原神宮は相対的に新しいのかもしれない…しかし、皇室に縁が深い神社であり、何か独特な厳かな雰囲気が感じられた…
↓催事でも何でもない夏の一日…私自身を含め、時折訪れる人の姿は在るものの、広大な境内は静かだった。或いは、この「広大さ」が何か「渦巻く天地の力のようなモノ」を感じさせるのかもしれない…
↑静かな境内の中、強い陽射しが創り出す大きな木の影さえも、何かを「主張している」ような気がした…
橿原神宮は、何か「不思議な力」が満ちているというような気にさせてくれる場所だった…或いはこれが、古人が“八百万の神々”という概念を纏めるに至った「自然と対峙する」という営みだったのかもしれない…
やや大袈裟なことに考え至ってしまったが…「私鉄沿線の乗換駅になっている駅―駅舎は一寸立派だと思うが…―に近い、静かな市街の端」に過ぎない場所に、独特な雰囲気を湛えた橿原神宮が在るのは非常に面白い…そしてここで浮かんだ「夏の煌めき」という表現…今般の旅の中で繰り返された印象を一口で表すフレーズともなった…
別な季節、別な状況で橿原神宮に寄ったのであれば…きっと違った感じ方をしたことであろう…この「夏の煌めき」という中で橿原神宮に出逢うことが叶い、非常に善かった!!