2018年06月04日

大坂城多聞櫓(2018.05.20)

大阪城には「大坂城」と呼ばれていた、明治維新の頃までの遺構が幾分残っており、それを見学する機会を設けることが叶った…

↓大手口に近い多聞櫓の内部だ…
Osaka Castle on 20-05-2018 (2)
↑石垣に沿うように設えられた、戦時には将兵が詰めて防衛の任に就く場所で、平時は関係者が行き交う通路となっていた場所だ…

「大坂城」は1615年の戦いで豊臣秀吉が築城したとされる城が落ちてしまい、その後に徳川幕府が改めて城を築いていて、その徳川幕府の時代の建物等の一部が残っている。この多聞櫓もそうしたモノの一つだ…

最近のテレビドラマではCGを使って見せているようだが、豊臣秀吉の時代の大坂城には壮麗で巨大な天守閣が築かれた。その落城後、徳川幕府も大坂城に天守閣を築いたと伝わるが、その天守閣は火災で焼失し、永く再建されなかった…

幕末期、14代将軍の徳川家茂や15代将軍の徳川慶喜が大坂城に入った経過が在る。その時代の大坂城は、幕府が軍事行動をしていたが故に軍勢の総指揮を執る司令部、本営であり、将軍の政務の一部が執り行われた政庁であり、将軍自身や幕府の高官達が滞在する公館というような様々な機能を担っていた。広大な敷地に“御殿”と呼び習わされた建物等が在った訳だ…

大手口の多聞櫓だが、城の敷地の外と出入する際、御殿へ移動するために通らなければならない場所であったらしい。ということは…画の多聞櫓の屋内に在る通路は、2人の征夷大将軍や、彼らに従った幕閣が歩いた場所ということになる…

「大阪城」は、昭和に入って「“大大阪”のシンボル」として天守閣が登場して公園として整備もされた場所であるが…間違いなく「大坂城」であった場所で、こういうモノのような「確かな歴史の痕跡」が在るのだ…

大坂城と聞けば…戊辰戦争が始まった鳥羽伏見の戦いの直後、徳川慶喜が何時の間にか城から抜け出してしまっていて、それに気付いた大勢の人達が「大樹公は何処におわす!?」と大騒ぎした挿話が伝わるが…この多聞櫓の様子を視ながら、「大樹公は何処におわす!?」と血相を変えて、唾を飛ばしながら行き交う関係者の様子を想像していた…

今般、たまたまタイミングが好く、興味深いモノを視ることが叶った…
posted by Charlie at 22:12| Comment(0) | HDR/2018年5月の旅(2回目) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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