2015年01月08日

中津:合元寺(ごうがんじ)(2014.12.16)

「赤い壁の寺」と言われても…「?」という感じである。

“寺”と聞けば、思い浮かべるのは白い漆喰の壁や塀であったり、木造で材料の木材由来の色の壁面が見える建物である。「赤い壁」と言われても、「どういうモノか?」という具合だ。

神社関係で、朱色を建物や鳥居に用いている例は幾らでも在る。しかしあれは朱色で在って、「赤い壁」というような表現は耳目に触れ悪い…

↓中津に立寄り、「赤い壁」と言う以外に適切な表現が見当たらない寺が本当に在ったのを視た…

↑「普通は白い漆喰」と思われるような壁を、正しく「赤く塗り込め」ている…“赤”と呼ぶ以外に、表現が思い浮かばない…一寸驚いてしまった…

「日豊本線を普通列車で南下して、行ける場所まで…」という思いで<青春18きっぷ>を手に、早朝の小倉駅を発った。やや薄暗い中、通学の高校生が多く見受けられた列車で県境を越えて中津に至った。小倉・中津間に限ったことでもないが、何度か通学時間帯の列車に乗り合わせて気付いた…市町村の境目を越えた通学は珍しくないようだが…「県境を越えた通学」と見受けられる光景は稀だった…小倉からの列車では、「福岡県内」で制服姿の高校生の乗降が何箇所かで見受けられたが、県境を跨いで中津駅に向かう区間ではそうした乗客の姿が途切れたのだ…

そんな様子で中津に着いた…中津は江戸時代には城下町であった場所で、その種の街にはよく在るが、古くからの市街から「やや歩く」必要が在るような辺りに鉄道駅が設けられている。中津城へ向かってみようと、駅からゆっくりと歩き始めて暫く行くと…この「赤い壁の寺」としか表現出来ない寺が在った…余所では視たことのない独特なモノで、少々驚いた…

↓この「赤い壁の寺」…合元寺という寺だ…

↑「赤い壁」は類例が無いモノなので…寺の名称を刻んだ標柱にわざわざ“赤壁”と刻んである…或いは“赤壁寺”というような“通り名”になっているのであろう…

合元寺は浄土宗の寺で、1587(天正15)年に黒田官兵衛(孝高)がこの地を知行するようになって移って来たことに合わせて、旧領の姫路から移って来た空誉上人が開いたという。

黒田家による統治について、旧来からの勢力は必ずしも協力的ではなかった中、1589(天正17)年、この辺りの元領主で求心力が在った人物であった宇都宮鎮房を、黒田家が中津城内で謀殺するという事件が在った。事件当時、宇都宮鎮房に従って中津に来ていた家臣達は近くの合元寺に拠って抵抗したが、結局は討ち果たされてしまった…

この騒動の後…合元寺の白い壁には、宇都宮鎮房謀殺を巡る事件で怨念を残して死んだ者達の返り血が着いた…その赤い染みが、何度白く塗り直しても浮かんでしまう状況だった…そこで何時しか、壁を赤く塗るようになったのだという…

↓この赤…恐らく、何度も何度も、最近に至るまで塗り重ねているように見受けられた…

↑所謂“天下統一”という流れで、「天下人が重臣に知行地を与え…」ということで黒田家が入った後も「根強い抵抗勢力が在った」が故に起こった事件…そうした古い事を伝える筈の“赤壁”なのだが…何か「斬新!!」とか「前衛的!?」とも見えてしまう…或いは「凄く和風なデザインに鮮烈な赤の塗装」というようなデザインが面白いかもしれない等、埒も無いことを考えながら眺めてしまった…

↓やや赤い色が褪せているように見えた箇所も…

↑塀の内側の建物も、一部は確り“赤壁”なのだ…どうも関係者が普段の寺の活動を行ったり、或いは住んでいる気配が在るのだが…「真っ赤な壁の建物の中に居る」というのは、どういう気分なのか?

「赤い壁の寺」と言われてもよく理解出来なかったが…正しく「百聞は一見に如かず」で、立寄って視てよく判った…或いは…これを一寸視てみるだけのことで、中津に寄るのも面白いかもしれない…それ位「珍しいモノ」というように思えた…
posted by Charlie at 18:31| Comment(0) | HDR/2014年12月の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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