レーニン通とパグラニチナヤ通とが交差する辺りのレーニン通側に、時々寄る「ピザとパスタの店」が在る。休日にその店に立寄って、パグラニチナヤ通を東へ進み、ミール通と交差する辺りで少し南へ動き、次の通を東へ進むとサウナが在る…
そういう経緯でパグラニチナヤ通という場所は時々動き回る場所なのだが、ここに「気になる」建物が在る。
↓こういうような屋根が視える建物だ…
↑綺麗な感じで、建物全般の外観を眺めて写真が撮れるような場所が思い当たらない…大学の関係と見受けられる、少し北の建物の上階から見下ろすのでもない限り、そういう画は望み悪いであろう…
丸みを帯びたドーム型の屋根が在って、頂上部に十字架が掲げられている。十字架の形状はロシア正教のモノだ…
通り掛かった土曜日の日中…敷地に出入りが可能な状態と見て近付いた…
↓間違いなくロシア正教の寺院であった…
↑真中辺りの「Храм」(フラム)以下がここの呼称だ…<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と呼ばれるらしい…
↓中に入ることも出来た…
↓外から見えるドームの辺りから、中に光が入り込むような具合になっている…
この場所について、或いは「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」について、リーフレットが配布されていて、あらましを知ることが出来た…
パグラニチナヤ通のレーニン通側からミール通側へ向けて進むと在るこの寺院の場所だが、1993年にロシア正教の活動拠点を設けようとして、当時在った古い建物を使用出来ることになり、建物の改修を施して1994年から利用することとなったのだという。そしてこれが<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>となるのである。
地道に活動を続け、10年が経った2004年頃から「新たな寺院を建設してはどうか?」ということになり、それを支持する2500名以上の市民の署名と共にユジノサハリンスク市に請願が為され、2007年にそれは容れられた。やがて現在の建物の設計が準備され、2009年に着工し、2012年9月に現在の建物が竣工して供用されるに至り、活動を始めた頃の旧い建物は撤去したのだという。
なるほど、この建物そのものは少し新しく見えたが、2012年から供用されているということなら納得だ。しかし1990年代にロシア正教の活動が盛んになり始めた頃からの経過が、この建物の背景には在る訳だ…
「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物(1797-1879)だが、今年が生誕220年ということになる…
イルクーツクの神学校に学び、卒業後に同地で司祭となったが、1823年にアリューシャン列島のウナラスカに赴任する。(現地に到着出来たのは、翌年のことだったという…)
アリューシャン列島では現地住民のアレウト語を学び、当時は文字が無かったというアレウト語をアルファベットで表記する方法を工夫し、後にアレウト語で福音書を出版することまで成した…
1834年にはアラスカのシトカへ移り、そこでも宣教活動を続けている。やがてサンクトペテルブルグでアレウト語の福音書を出版する仕事に奔走する期間を挟み、アラスカ主教に選任されてアラスカに戻ることになる。
1850年から1860年にはシベリアからアムール河流域に至るまで、更にカムチャッカに至るまで広範な地域で伝道活動を行っている。1867年には、永い熱心な伝道活動への評価により、ロシア正教会では最高の地位であるモスクワ府主教に選任された。
ロシアではロシア正教会の最高位であるモスクワ府主教の地位に就いたということで、それを冠されて紹介されることが多い人物だが、「アラスカのインノケンティ」としても知られている。
19世紀後半に少数民族も含めて極東の諸民族にロシア正教の信仰が拡がっていたというが、それらはこのインノケンティの伝道活動の成果という側面が在る。サハリンでは「この地域に正教を普及させた偉人」という受け止め方なのだと思える。
彼を記念し、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と命名された場所は、ユジノサハリンスクのこの場所の他、クリル諸島のセベロクリリスクにも在るそうだ…
↓決して「大きく立派で見応えが在る」という感じではないのだが…本当に「地域に根差した、地元の皆さんが集まる教会」という雰囲気が色濃く滲む場所だ…
「気になる」と思った場所には、思い切って寄ってみると、色々と学ぶことが出来るものだ…という気がした…
posted by Charlie at 00:19|
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HDR/サハリン
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