
↑宮崎駅から北上すれば1時間弱で、延岡駅から南下すれば40分強の場所である。何となく「宮崎・延岡の中間点のような感じ」と思えた…
↓九州各地で活躍する、正面の黒いカラーリングが渋い817系電車で到着してみれば、行き違いの787系電車による特急列車が駅で待機していた。特急列車の方は、817系電車が走行していた“単線”の箇所が空いたことを受けて直ぐに発車した…

今般、最終的には“帰国”のフライトに搭乗するために関西方面に戻らなければならなかったのだが、その前に九州北部への移動を企図した。宮崎から、日豊本線を北上すると<旅名人の九州満喫きっぷ>で乗車可能な普通列車だけで、夜遅くに小倉にまで至ることが出来る…延岡から北側、県境を越えて大分県の佐伯に至る区間が、極端に普通列車が少ない“ボトルネック”になっているのだが、その区間を行く夕方の列車に間に合うように、宮崎県内での道草ということにした…
美々津…“津”という文字が示すように、古い港である…室町時代には明国とを往来する船が寄港していたそうだ…戦国期には大友家と島津家の日向国を巡る争い―大友軍が島津軍に敗れた「耳川の戦い」の耳川も近いようだ…―に巻き込まれた場所で、江戸期に入れば高鍋秋月家が物資輸送拠点として利用していた。明治期にも西南戦争時の戦闘が近くで行われたらしい。現在では宮崎県日向市の一部である訳だが、港としての独自な歴史を伝える古い町並みが知られる。
古い町並みが知られる美々津だが…更に言えば、ここは神武天皇が東征に出発した場所であるとも伝えられているのだ…
↓美々津駅の案内掲示を参考に、宮崎県の海岸線を貫いて大分県側と結ばれているように見受けられる国道に出て、20分程も歩いたであろうか…こんな看板が見えた…

↓看板に導かれて歩を進めると、両側が木立に覆われた細い路の向こうに、「映画撮影のセット?」を想起するような、如何にも「古い町並み」という雰囲気の家並が覗いた…

「月曜日の午前中」という時間帯であった…美々津は静かだった…本当に「映画撮影のセット?」というような感じもしたが、実際に「暮らし」が営まれていることが判るモノも色々と見受けられる。御近所の方が動き回っているような様子も散見した…
↓かなり古そうな建物も、寧ろ新しいように見える建物も混在していたように思ったが、一様に「古くからの様式」を綺麗に踏襲した建築で、「古い町並み」の趣が確りと護られているような感だった…

↓海が見える辺りに、不思議な記念碑が在った。旭日の軍艦旗が翻っている…

↑これが「日本海軍発祥之地」の記念碑だ…
「日本海軍発祥之地」の碑は、1940(昭和15)年に神武天皇の東征の故事を記念し、出航の地と伝わる美々津から大阪まで航海し、「即位の地」と言われる場所に在る橿原神宮に“神楯”を奉献したということが在ったという。それを受けて1942(昭和17)年にこの記念碑が建立されたそうだ。「神武天皇が率いる船団」となれば…或いは「最初の日本海軍」ということなのであろう。“日本海軍発祥之地”という文字は、首相を務めた経過も在る、海軍大将の米内光政が揮毫しているそうだ…
↓神武天皇の船団に加わっていたと推察されるような古代の船が記念碑に付いている…

↑宮崎神宮で展示されているのを観た<おきよ丸>の型の船だ…
↓軍艦の錨も、記念碑の横にモニュメントとして据えられている…

美々津は、神武天皇の神話と結び付いている…それだけでも「相当に古い歴史を有する港」ということを想起させて余り在る…
↓家並が途切れる辺りで、海がよく見える場所が在った。

↑少し大きくうねる浪の向こうに、少し大きな岩が在って、灯台が佇んでいた…
この美々津については、「遍歴の句人」とでも呼ぶべき、かの種田山頭火が1930(昭和5)年に立寄っている経過が在るのだそうだ。
「墓がならんで そこまで 波がおしよせて」
↑山頭火が美々津で詠んだと伝えられる句である…
山頭火が美々津に立寄った当時、家並が途切れて海がよく見える辺りに墓地が在ったとのことで、墓地の間近に大きな波が寄せている様を詠んだらしい…
こういう事がさりげなく紹介されていたりしたが…私が思い出したのは…「どうしようもない 私が 歩いている」という山頭火の句だった…
↓国道側から家並に至った直ぐの辺りに、名前は知らないが、花が咲いていた…

美々津というのは、何か「神話の時代」から「昭和」に至るまでの時間が、ひっそりと古い町並みの中に留まっているような、何処と無く不思議な場所であったように思った…そして「どうしようもない 私が 歩いている」等と思いながら、美々津へ至るまで歩いていた国道を駅の側へ引揚げ、延岡へ向かう列車を待った…
↓10月26日撮影の画を集めたアルバムは下記…
>>Photomatrix - OCT 26, 2015