街角の“銅像”とか“胸像”というようなものは、辺りを動き回る際の目印になり易い。「あそこの○○さん(の像)の辺りで…」と、動き回る場合の目印にしていることが繰り返されると、妙に“親しみ”を覚える…
稚内の私が動き回る範囲では、残念ながらその種のモノは無い…強いて挙げれば…時々寄るマクドナルドの辺りの駐車場に、記念写真を撮る等の場となっている、ベンチで寛ぐ“ドナルド”が在るが…あそこは“ドナルド”以上に、高々と掲げられた有名なマークが目印になるので、余り彼を気に掛けることも無いが…
「何度も目印にして親しみを覚える」という像が、地元以外で何となく思い浮かぶのだが、ユジノサハリンスクの“チェーホフ像”はその一つだ…
↓“彼”はこんな具合に、外套を引っ掛けて、帽子を手に腰掛けて寛いでいる…
↑街の美術館と図書館の間の、少し広くなった、日本の用語で言う“都市緑地”のような場所だ…高名な作家であるチェーホフの像が鎮座―文字どおりに坐っている姿だ…―する場には似つかわしいように思う。恐らく、“彼”の背中側に在る図書館にも、彼の著作や、彼に纏わる話題を扱った本や資料が多々収蔵されているのであろうから…
“彼”は何時も、直ぐ手前のバス停で乗降する人々や、所謂“目抜き通り”となるレーニン通を行き交う人々や車輌を見詰めている…
ユジノサハリンスクを訪ねた際に利用機会が多い宿は、画の右側…“彼”の何も持っていない左手の側ということになる。私は何となく、宿を基点に「チェーホフさんの手前」、「チェーホフさんの向こう」という感じで、周辺に在るモノを認識している。これは格好の“目印”なのだ…
チェーホフは、短篇小説等で或る程度知られるようになってきていた1890年、思い立ってサハリンを訪ねている。チェーホフ自身は医学を学んだ“科学者”でも在った訳だが、そうした科学者的姿勢で、当時は“流刑地”でもあったサハリンのレポートを作成した。それが『サハリン島』である。
『サハリン島』の後、チェーホフは<モスクワ藝術座>という素晴らしい表現者集団が現れたこともあって、戯曲作家として有名になっていく。そして晩年―他界した時は44歳…―は<モスクワ藝術座>で活動していた女優、オリガ・クニッペルと結婚している。
そんなチェーホフについてだが、「何度も寄っているサハリンに足跡を残している高名な作家」ということで、かなり旧い話しながら「モスクワでその戯曲による芝居を色々と観た思い出」の故に、私は何となく親しみを持っている。初めてユジノサハリンスクのチェーホフ像を視たのが何時だったか、余りよく覚えていないが…このチェーホフ像に関しては、何時も“目印”とさせて頂いている。視掛けると、「また会いましたね!!」という感じである…
極最近、偶々チェーホフやオリガ・クニッペルの話題を扱った本を、爽快な気分と共に読了した。その本の末尾の方でも、私も知っているユジノサハリンスクのチェーホフ像の話題が一寸だけ出て来るのだが…「そう言えば、青空になった日に撮ったチェーホフ像の画が…」と思い出し、この記事に纏めてみた。
ユジノサハリンスクでは「現在の市の領域で1882年にウラジミロフカ村が起こったこと」を以って「街の起源」としているようだ…実際には…1907年頃から建設された“豊原”の基盤が、1945年、1946年頃から“ソ連化”して“ユジノサハリンスク”となり、地域の行政・経済、更に文化活動の中心になったということで今日の隆盛に繋がっているのだと思えるが…
チェーホフがサハリンを訪ねた1890年頃、“ウラジミロフカ村”は住民が「何十人」という次元の「本当に小さな寒村」だったようだ…写真のチェーホフ像が鎮座する辺り…少し時代が下った“豊原”の頃に会社等が集まる地域になった場所―“彼”の左手側に美術館が在るが、建物は“豊原”時代に日本の金融機関が支社として建築し、使用していた経過が在るモノだ…―で、チェーホフ自身は足を踏み入れていない可能性…否!「森の中」のような場所で、踏み入れられなかったかもしれない…時々、そういう余計なことも考えてみたくなる…
↓チェーホフの目線…何処を見詰めているのだろうか?サハリンは資源開発を契機に、近年は発展著しい…チェーホフが視た寒村の面影など無い…
そのうち…“彼”とまた出くわすことも在るかもしれない…
posted by Charlie at 19:09|
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HDR/サハリン
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