何日間かの旅から戻ってみると、何時も「あそこでもう少し時間を費やしても善かった筈だが…」などと振り返ってしまう。私には、多少「忙しく動き回り過ぎる」傾向が在るかもしれない…
今般の旅では「今回、とりあえず行っておかないと、“次”は何時か?或いは“次”というものが在るのか否か…」などと考えながら動き回り、何時しか「九州7県全てに足跡を!!」というようなことになってしまっていた…
そういう文脈で佐賀に立ち寄った…だからと言って、「とりあえず足跡」というだけでもない!!佐賀には、訪ねてみたかった場所が在ったのだ!!
その一つが、佐賀城の本丸である…
当日は、早朝に戸外に出ると小雨が降り始めたが、結局のところ午後に佐賀から離れる辺りまでしとしとと雨が降り続いた…佐賀駅のコンビニで思わず傘を求めてしまった…(その傘は、その後「福岡・札幌」の機内、新千歳空港・旭川・稚内の列車の中に確り持ち込まれた…佐賀で求めた傘は確り拙宅に持ち帰った…)
↓駅の辺りから…15分前後は歩く距離であろうか?他の場所にも寄りながら、佐賀城に着いたが、古くから残る門が迎えてくれる…
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佐賀というのは、北に玄海、南に有明海を擁する佐賀県の内陸、県のテリトリーの真ん中辺りを占めている。「平野の真ん中」のような感じだが、ここに“平城”と呼ばれる佐賀城が在る…
佐賀城は、戦国期に肥前で大きな勢力を持っていた龍造寺家が利用していた拠点の後に、今日の佐賀県の大半を領地とした鍋島家が入って築いた城だった。結局、幕末期までの永い期間、佐賀城は鍋島家の当主の居城で在り続け、その城下町であった佐賀は、明治期以降も佐賀県の行政の中心ということになった。
佐賀城だが、鍋島家が最初に築いた建築群は18世紀に消失してしまっていて、二の丸に当主の居館、政庁を兼ねた御殿が建てられていた。この御殿が1835年に消失してしまった…それを受け、本丸に当主の居館、政庁を兼ねた御殿が新たに建設された。ここが、明治期以降になっても色々と活躍していくことになる、幕末期の佐賀の人達が動いていた場所ということになる。
現在、“歴史館”となっている佐賀城本丸の建物は、幕末期の御殿を再現したものである。残念ながら全部が再現されているのではないのだが…“歴史館”は、その幕末期の人達が動いていた建物を再現した場所を利用して、鍋島家の指導下で「余所に先駆けて」色々なことに取り組んだ経過や背景、佐賀が輩出した明治期に活躍した人達のことなどが判るような展示がされている。
↓未だ再建されて日が浅いようだが…この建物の前に立つと幕末期へ時間旅行でもしているような気分になれる…
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佐賀の鍋島家は、幕府の命で“長崎警固”という役目に就いていた。交代で長崎に進駐し、有事に備えるという任務が在り、それを担っていた大名達の一画を占めていたのだ。そうした中、当時は未知のものであった「欧州流の技術」に触れる機会が在り、「余所に先駆けて」色々なことに取り組むこととなるのである。そうした状況を紹介する展示を視たが、偶々長崎を視た後にそうしたものに触れたことから、その印象が強いものになった…
↓今風に言えば“オフィス”に相当する場所、家中の催事を行う“ホール”に相当する場所、高位の人達の“控え室”のような場所、“キッチン”等色々な機能を持つ部分を順次建てたらしく、建物は色々なモノを寄せ集めたような感じがした…
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↑何気なく視ていると「大きな寺」というような感じもしないではない…
この他、この佐賀城の資料館には“北海道人”として見逃せない展示が在る…島義勇に関係する事項だ…
何処でも小学校で「郷土の歴史」というようなことを習う…最近の様子は知らないが、少なくとも札幌で過ごした小学生の頃―酷く昔のことだが…―、何やら“副読本”が在って、札幌の街の起こりについて習った…そこには“島判官”という人物の古色蒼然たる写真が在って「北海道開拓の中心的な街とすべく札幌の街を建設する計画に関わった功労者」として紹介されている。この「島判官」が島義勇で、佐賀の人である。
正直なところ、小学生の頃に副読本で視た「島判官」が佐賀の人で在ることを知ったのは比較的近年のことだ…この人は、佐賀では幕末期から明治期に活躍した“賢人”に数えられてはいるものの、地元でも然程知名度は高くない様子だ…勝手な想像だが…鍋島侯が明治政府の中で「蝦夷地開拓の責任者」というようなことになり…鍋島侯は「誰ぞ、善き者に差配させよ…誰ぞ居らぬか?」と元の家中の士を思い出し、箱館を訪ねた経験が在ったという島が居たことに気付き、「その方を蝦夷地へ差し向ける故、善きに計らえ…」というようなことにでもしたのであろう…
その島義勇に関係した資料館の展示…「南が上、北が下」の形で描かれた、樺太、北海道、千島列島の地図である…“館内資料展示撮影禁止”なので写真は撮っていないが、私にとってはかなりインパクトが在った…
“城”と言えば、天守閣や櫓のような高い建物が目立って、見栄えもして、人気もあるのかもしれない。が、ハッキリ言えば、それらの建物は「優先度が高い施設なのか?」という存在である…実は“城”で最も大切なのは“戦時”に用いることが基底に在る以上「防衛拠点」、「要塞」としての“縄張り”と呼ばれる施設配置が何よりも重要であり、また江戸時代のような“平時”ということであれば「当主の居館」、「政庁」、「賓客の接待」というような機能を負うことになる“御殿”と呼び習わされた建物の方が余程重要なのである。
佐賀城は、その大切な“御殿”を、それも「幕末期の様子」を巧く再現している。なかなかに好かった…
↓読んだことのある佐賀関係の本…
>>『幕末維新と佐賀藩』=江藤新平等のことを解説している新書…
>>『円を創った男』=明治初期の大隈重信の活躍を扱った小説…
>>『酔って候』=4人の大名を各々の主人公に据えた4編が収められていて、1編が鍋島侯を主人公としている…
佐賀を含み、九州各県や山口県辺りでは「近代化遺産」と呼ばれる、幕末期から明治期に当時の最新技術を採り入れて殖産興業を目指した痕跡を“世界遺産”にしようという動きも在るそうだ。佐賀には船の修理や造船に供する目的で建設された「初めてのドック」の跡も在るという。そんな場所など、佐賀に関しては「更に行ってみたい」場所が色々と出て来そうだ…
↓佐賀城を含む12月21日の画…