拙宅近隣の最も気に入っている風景が「稚内港北防波堤ドームの在る風景」ということになる。
「気に入っている」に関して、理由が在る場合も在るが、理由がハッキリしない場合も在る。「稚内港北防波堤ドームの在る風景」が気に入っている事に関しては、後者の「理由がハッキリしない」という要素が大きいように思える。
“稚内港北防波堤ドーム”とは何か?
創建当初、この施設は「稚内港屋蓋式防波堤」と呼ばれたようだ。港の施設なのである。
稚内港は1905年に日本領ということになった樺太との連絡港として注目され、1920年代から整備が本格化した。当時は、現在の北埠頭に相当する地区が稚内港であった。
1920年代に入り、天北線(現在は廃止…)、宗谷線と鉄道が稚内に到達し、1923年には稚内・大泊(現在のコルサコフ)航路、1924年には稚内・本斗(現在のネベリスク)航路と樺太への定期航路も運航が始まった。
現在“ドーム”が在る辺りで貨物や旅客を船に載せようとしていた訳だが、冬季の風浪が激しく、貨物や旅客の輸送に際してはなかなか大変であった。当時は殊に「貨物輸送」と言えば鉄道であったが、埠頭に線路を引き込んでも高浪が埠頭に被って線路も傷んでしまうような状況が危惧された。またそのような場所で旅客が移動するのも危険である…そして、埠頭の位置は当時の稚内駅から1.5km程度とやや距離が在る―現在の稚内駅と現在の南稚内駅の中間辺りだった…―ため、「埠頭まで安全に鉄道を敷設したい」という考え方も在った。
ということで、「それでは屋根を…」と「稚内港屋蓋式防波堤」が設計され、1931年から約5年間に亘る工事を経て完成した。
これが“ドーム”として今日知られている施設の誕生なのだが、あのドームの屋根の下は列車のプラットホームになっていて、柱の前に線路が在って列車が発着していたのである。そして「稚内港駅」と旅客連絡橋も設けられ、樺太への船に連絡していた。
1945年に樺太への航路が途絶え、「稚内港駅」も廃止になり、“ドーム”は資材置場のような状況であった。建設時のコンクリート建築の技術では、海の砂を使用した関係で、1970年代には傷みも目立ち始めた…そして、線路を完全に撤去して北埠頭周辺を整備する際に再建を行った…1990から2000年代には耐震補強工事も施されている…
この“ドーム”は全長が427mで、太い円柱は70本で“屋根”を支えている。冬の高浪が酷い場合…この“ドーム”の屋根のかなり上の辺りまで浪が被って、飛沫が屋根を越える場合も在ったようだ…近年は「飛沫が屋根を越える」次元の高浪は聞かないが…
現在、この“ドーム”が在る北埠頭辺りは“緑地”として整備が進められている。数年の間に多少様子も変わることであろう…
この“ドーム”に関しては、以前から親しんでいるのだが…なかなか魅力的な被写体で、新しいカメラを入手してからというもの、散策に出て撮影という機会が増えている…
↓この“ドーム”を含む、2010年12月撮影の画を利用したHDR画像はこちらで御覧頂ける…

例えば札幌で“ドーム”と言えば「ファイターズの本拠地になっているスタジアム」であろうし、他所でも東京ドーム、ナゴヤドーム、大阪ドーム、福岡ドームとスタジアムが思い浮かぶケースが多いと思うが…「稚内では」、“ドーム”と言えば“稚内港北防波堤ドーム”である!!さもなければ…日本海側にある温泉の“童夢”(ドーム)であろう…
posted by Charlie at 18:16|
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